長年、本・雑誌・ウェブメディアのコンテンツ作りに携わってきた50代の元編集者が、仕事を離れてひとり各地をのんびり見て回り、ゆるゆると歴史に思いを馳せ、おいしい食を堪能します。“スローな旅ルポ”の連載をお楽しみください。第1回は、貴重なクジラ文化の伝統を守ってきた素敵な町の訪問記です。(写真・文/広部潤)
東京・根津で出会ったふくよかな味
千葉県の房総半島沖で獲れるクジラの肉をがっつり食べてみたい──。そう思い始めたきっかけは、一見、房総とは特別な縁もなさそうな、東京・根津の静かな一角にあった。
食滋楽と書いてくじらと読む。根津神社裏の路地にあるクジラ料理店の名前である。7年前のオープンからしばらくの間、「ひみつくじら」という名称だったこの店は、当時、房総半島で水揚げされたクジラの刺身、ベーコン、焼き物、揚げ物、煮物など各種料理に、やはり房総の野菜や山菜、魚介類を組み合わせ、すべて天然の調味料で味付けした独自のメニューを提供していた(店のウェブサイトによると、現在は房総だけでなく、他の捕鯨基地からのクジラの肉も出しているという)。
ある晩、訪店してみると、店主氏の柔らかな物腰とジャズが流れる渋い雰囲気にあわせて、評判通りどの品も美味で大いに満足した。中でもやはり驚かされたのは、部位によって柔らかくもあればコリコリとした歯応えもあり、ジューシーでふくよかで繊細なクジラ肉のおいしさだった。
この多彩な「房総のクジラ」の味は筆者の舌の記憶にくっきりと刻まれ、以後、ときどき思い出しては激しく食欲を刺激されることになった。かつてクジラといえば、小学校の給食で食べた竜田揚げ(まずくはなかったが少しパサパサしていたように覚えている)を連想するくらいだった頃とは大違いである。筆者はいつしか、房総の地を訪ねてそこでクジラを食べたい、と考えるようになった。
その後もときどき食滋楽を訪れては、いつもおいしく料理と酒を頂いていた。また、他の店でクジラ料理を注文することもたまにあり、いずれもそれなりに良い味だったという印象だが、「房総で房総のクジラを食べたい」という思いは消えることがなく、むしろ募る一方だった。目の前に広がる太平洋を睥睨しながら、その大海原から水揚げされたクジラを豪快に食したらどんな気分だろう……。
日本には捕鯨基地が5ヵ所あるという。北海道の網走市、函館市、宮城県石巻市の鮎川地区、和歌山県太地町、そして千葉県南房総市の和田浦である(資料の中には、基地数を全国で4ヵ所としたものや、函館市の代わりに釧路市を入れたものもある)。和田浦は関東地方では唯一の基地で、鯨類の中でも小型のツチクジラを年間26頭まで捕獲することが認められている。タイミングが合えば、港で、水揚げされたクジラの解体を見学することもできる。
この地を訪ねたいという数年来の願いが叶ったのは今年6月のことだった。東京から車で約1時間50分、真っ青な海を眼下に東京湾アクアラインを渡り、緑豊かな房総半島をひたすら南下して、捕鯨の聖地・和田浦に到着した。
時間を忘れさせるコバルトブルー
「こんにちは〜」
海からの心地よい微風に吹かれて歩いていると、すれ違う人に穏やかな口調で何度か挨拶の言葉をかけられた。
和田浦の宿に着いたのは昼過ぎのことだった。海を見たくて矢も盾もたまらず、部屋に荷物を置いてすぐに外出した。白砂が広がるビーチまで歩いて1分もかからない。そこから太平洋の波濤を眺めつつ、海岸沿いの道をさらに10分あまりぶらぶら歩くうちに、向こうから来る人(といっても合計3人だったと思う)が、いずれもすれ違いながら「こんにちは〜」と声をかけて軽く会釈してくれることに気づいた。
もちろん、防犯上の理由で、見知らぬ人間が現れたら声をかけるようにしているのであろうことは想像がつく。ただ、そう察しつつも、丁寧に挨拶されること自体は悪い気分ではなかった。初めての土地に来て気分が弾んでいるあまり好意的に受け止め過ぎかと自覚しつつ、他所からの来訪者に優しい言葉をかけようというホスピタリティが強い土地柄なのかしら、などとも考えていた。
堤防に立って太平洋と向かい合う。はるか彼方まで広がるコバルトブルーの鮮やかなことに改めて驚かされる。海中から縞模様の地層が走る岩がいくつもくろぐろと顔を覗かせる一方、堤防の真下から波打ち際まではクリーム色の砂浜が続き、三つの色のコントラストが目に実に心地よい。このビーチの一部「和田浦海水浴場」は、環境省が認定している全国の「快水浴場百選」にも選ばれているそうだ。泳いだらさぞ気持ちが良いことだろう。
波の上でサーフィンに興じる黒いウェットスーツの数人以外、周りに人影はない。聞こえるのは、風が木の葉をさわさわと揺らす音くらい。いつまでも寄せては返す波、遠くで海と空が混じり合う水平線、青空にゆっくり流れる幾片かの白い雲、淡く浮かぶ月……眺めているうちに時間が経つのを忘れてしまいそうな、軽いトランス状態のような感覚に陥る。
「いさなとり」の歴史と誇り
我に返るようにまた歩き始めると、海水浴場の駐車場の近くに「南房総の捕鯨」と大きく書かれた金属製の看板があった。青い塗料のあちこちにひび割れが入り、色あせた部分もあって、設置されてから短くない年月が経っているものと思われた。
看板の説明を読んでみた。地球上で最大の哺乳類を軸とする貴重な業と文化の歴史が、いくつかの写真と共に記されていた。
この地が全国でも特異なツチクジラ対象の沿岸小型捕鯨の基地であること。捕鯨の活動は縄文時代に由来し、組織的には16世紀後半から現在まで房総半島南部で少しずつ拠点を変えながら行われてきたこと、その間に何度かあったピンチ(たとえばペリー来航とも関連する、19世紀の日本近海における外国捕鯨船の急増とそれに伴うクジラの減少など)を乗り越えて続いてきたこと……。
読んでいるうちに、どういうわけか筆者の心の中に、感動に似た思いが小さく湧き上がってくるのがわかった。同じような内容は、パンフレットやいくつかのウェブサイトにも記されている。ただ、潮風を浴びて立つ古びた看板からは、単なる情報を超えてじわりと胸に迫るものが伝わってきた。しかし、それが何なのか、すぐにはうまく言葉にできなかった。
不思議な感覚をもたらすものの正体がわかったのは、看板の下の方に書かれた一文を読んだときだった。
「昔から日本人の貴重な蛋白源として重宝されてきた鯨肉を、ぜひみなさんも食してみてください」
筆者の心を静かに打っていたのは、看板にこめられた「誇り」だった。
この地に暮らす人々は、捕鯨という独特の業とその長い伝統に加え、日本社会の大切な食資源のひとつを支えてきた歴史に、紛れもなく大きな誇りを持ってきたのだ。縄文・弥生の昔から人々に食されてきたクジラは、「いさな」(勇魚)と呼ばれ、大海に漕ぎ出してそれを捕らえる者は「いさなとり」として万葉集の歌の枕詞にもなっている。肉は奈良時代、天皇に献上され、江戸時代になると滋養ある大衆的なメニューとして老若男女に親しまれた。同時にクジラの供養のため、感謝を込めて「鯨塚」という祠が建てられた。
こうして古代から脈々と受け継がれてきたいさなとりの誇りが、今まで捕鯨業が直面してきた数々のピンチを乗り越える支えになったのだろうか……。筆者は看板を見ながらそんなことをぼんやり考えていた。
ノスタルジックで幻想的な光景
さらに海辺の道を進むと、クジラが水揚げされる和田漁港に出た。公衆トイレの前に、目隠しのように数メートル幅のボードが置かれており、そこにもクジラの絵が描かれているのが微笑ましい。コンクリートの岸には陸揚げされた漁船が何艘か並び、海に面して建つ小さな小屋には「和田浦 舟方詰所」と書かれた木の板がかかっていた。かすれた太い文字が長い歴史を思わせる。
ふと、ここはある種の懐かしさを感じさせる街かもしれない、と思った。初めて訪ねたのに、捕鯨という古来の文化の拠点であるせいか、ただぶらぶら歩いて空気を吸うだけで、少しずつ郷愁を誘われていくような気がする。そんなノスタルジックな感覚が、海が目の前にあるがゆえの開放感と混じり合い、ゆったりと穏やかに気持ちを満たしていくようだった。
港の一角にクジラの解体場があった。屋根に覆われているだけで周囲に壁がない、がらんとした空間で、外から内部が見える。捕獲されたクジラは、船からなだらかなコンクリートのスローブの上を通って、この解体場まで運ばれるようだ。解体の際は、見学に来る人や肉を買いに来る人が集まってずいぶん賑わうという。筆者もできれば見学したかったが、訪ねた日にあいにく解体はなく、賑わうどころか人っ子一人おらず、黒猫が屋根の下から出たり入ったりしてのんびり散歩しているだけだった。
ようやく人の姿を見たのは、港の脇の、小学校のグラウンドくらいありそうな広い空き地でのことだった。逆光のせいではっきりとはわからなかったが、中年男性と思しき人物が1人、犬とフリスビー遊びに興じていた。男性が投げたプラスチックの円盤が、ふらふらと風に揺れながら降りてくると、犬は雑草の間を縫って全力疾走で追い、飛びついて口でキャッチする。5回、10回と繰り返しても、犬は一度も捕り損なうことがなかった。
やがて男性が、近くにいる筆者に気づき、「こんにちは〜」とのんびりした声で挨拶してきた。こちらもなぜかちょっと嬉しくなって、「こんにちは〜」と返す。彼は頷くと、また筆者に背中を向けてフリスビーを投げ、犬がそれを追いかけた。
夕方近い時間帯の傾いてゆく日差しの中、延々と遊び続ける彼らのシルエットは、どこか非現実的な、幻想の中の光景のように思えた。
クジラと魚と辛口の地酒
いったん宿に戻って一休みしてから、いよいよ念願の「房総のクジラ」を食べに行く。場所は、宿の方にクジラ料理の名店だと教えてもらった「笑福」(わらふく)である。
外はもう薄暗く、店に向かって再び港の脇の道を歩くと、日没寸前の残光が山の端からわずかにこぼれ、湾の水面をオレンジ色に染めていた。犬とフリスビー遊びをしていた男性も、その向こうで岸壁から釣り糸を垂れていた人も、すでに家に帰ったらしい。かすかな潮の香りの中、誰もいない、静かな夕暮れだった。
笑福は明るいグリーンの外壁を持つ一軒家だ。外からは一見、こぢんまりとした印象を受けるが、暖簾をくぐると、店内は思いのほか広々として、清潔で温かい雰囲気だった。棚には日本酒のボトルや焼酎の甕がずらりと並び、壁には大小さまざまの写真や絵、魚拓、さらに「笑う門には福きたる」と書かれた大きな板が飾られていた。
大将とおかみさんの「いらっしゃいませ!」の声に迎えられ、カウンターの席に案内された。テーブルも小上がりも満席になっており、地元の家族連れのお客が多いようで、皆さん、楽しそうに飲んだり食べたりしている。カウンターも残席は少なく、予約してきてよかった、と内心ホッとした。
「うちは初めてですよね?」
カウンターの中と厨房を行き来して忙しく働いている大将が、店名の通りの笑顔と穏やかな声で話しかけてきた。
「はい。クジラがおいしいお店と聞いたので、初めて来ました」
「じゃあ、一通り揃っているコースがいいと思いますよ」
お勧めに従って2000円のコースを注文し、生ビールで喉を潤していると、まず、クジラのさえずり(舌)や赤身のヅケに、イカ、貝なども加えたおつまみの盛り合わせが運ばれてきた。さえずりはしっとりと柔らかく、ヅケは適度にコリコリした歯応えが心地よい。次いで頂いた魚のアラ煮もしまった身に味がしっかりしみて、たまらず酒をビールから房総(勝浦市)の日本酒「腰古井」(こしこい)に切り替える。キレのよい辛口の地酒はクジラや魚に絶妙に合って、筆者はくいくいと手酌を重ねてしまった。
クジラという食材の芳醇さ
「どちらからいらしたんですか?」
大将がまた気さくに話しかけてくれた。多くのお客が入って忙しいはずなのに、さりげない気配りが嬉しい。
「東京です」
「昭和が残っているでしょ、ここには」
なるほど、昭和か……。先ほど海沿いの道や港の周りを歩いているときぼんやり懐かしさを感じたのは、三十数年前に終わった(そして自分が成人する頃までを過ごした)時代の匂いの名残りをこの地で嗅いだからなのか。
「本当に良い雰囲気のところですね。広い海が目の前にあって、ゆったりした空気が流れている感じで……」
気の利いた返答もできずまとまりのない感想を口にしている筆者に、大将はまた笑顔を見せて仕事に戻っていった。
その直後に運ばれてきた2枚の「南蛮漬け」が絶品だった。これは、下味をつけたツチクジラの赤身を竜田揚げにして南蛮酢に漬けたものだそうで、大ぶりの肉が柔らかくジューシーなことに驚かされる。クジラという食材の芳醇さに改めて感銘を受けた。
お酒も、メニューにあったもう一つの千葉県の銘柄「甲子」(きのえね)を注文。こちらはふくよかな味わいでわずかに酸味が効いており、すっきりと飲みやすい。やはり地元の食べ物には地元のお酒がよく合うのだな……などと酔った頭で陳腐なことをぼんやり考えているうちに、最後に寿司5貫が登場した。
そろそろ満腹かなと思っていたにもかかわらず、おいしそうな寿司が現れると猛然と食欲が回復するのが我ながら浅ましい。ともあれ、濃いめの味のクジラ南蛮の後に、やはり地元の海で獲れた新鮮な刺身の寿司という流れが嬉しく、しっかりと頂いて大いに満足した。お会計をお願いして時計を見ると、20時半になっていた。
外に出ると、入店時にはまだわずかにあった残照が当然ながらすっかり消えて、闇が周囲を覆っていた。中天に浮かぶ満月だけがくっきりと光を放って、クジラの解体場など港の建物のシルエットをうっすらと浮かび上がらせている。
ビールと日本酒でほろ酔いになり、火照った顔に潮風が心地良かった。月明かりと街路灯の細々とした光だけを頼りに、暗い海辺の道をまた歩いて宿に戻る。海からかすかに波のざわめきが聞こえるほかは、日中と同じく静かである。
思いはどうしても、笑福で頂いた絶品のクジラ料理に戻っていく。メニューが順番に記憶からよみがえり、
「いやあ、うまかった。あれだけがっつり食べて2000円はコスパが良すぎるな」
などと呑気に独りごちた声が、闇の向こうにくろぐろと広がる太平洋に吸い込まれていった。
体長26mの骨格と遭遇
筆者には、旅先で車を運転しているときに出てしまう妙な癖がある。「道の駅」を見かけると、時間にあまり余裕がなくてもなぜか立ち寄ってしまうのだ。食事も買い物もそれほどしないくせに、地元の産品がずらりと並び人々が賑やかに集まる、道の駅独特の楽しい雰囲気が無性に好きなのである。
和田浦でもその癖が出た。クジラ料理を堪能した翌朝、宿を出発してまもなく、和田浦駅の近くに道の駅の看板を見かけたときのことだ。
たしか、この道の駅のレストランもクジラ料理がうまいと何かのサイトに出ていたな。直売所もクジラ関連品を扱っているらしいがどんな様子だろう。お土産になりそうなものは買えるだろうか……。いい年をして他愛もないことに胸を高鳴らせながら、さっそく駐車場に車を入れてしまった。
しかし、その「道の駅和田浦WA・O!」は閉まっていた。えっ、コロナ禍で休業か? と思ったがそうではなく、単にまだ営業時間が始まっていないだけだった。そのときは午前8時過ぎで、開店は午前9時だが、そのまま1時間も待っている時間的余裕はなかった。なんとも残念でたまらず、大きく溜息をついてから、まあしょうがないなと気を取り直して周りを歩いていると、道の駅の隣に「鯨資料館」なる建物があった。
資料館自体は普通のビルのように見えたが、異彩を放っていたのが、入口前の芝生の上に置かれたクジラの骨格だった。忽然と現れた巨大な白い物体の迫力に、思わず、おおっと感嘆の声を上げてしまう。
クジラの頭部の骨は太いくちばしのようで、骨格全体の3分の1くらいを占める。やや斜め下を向いた頭部の先端は、地表に触れそうなほど近い。逆に胴体から尾にかけてはそれより少し上の位置にある。何やら、頭から前のめりに地面に突っ込みそうになっている姿勢のように見える。そんなに思いつめなくてもいいよ、と声をかけたくなるほどだ。
傍らの看板の説明によると、1880年代にノルウェー沖で捕獲された体長26mのシロナガスクジラの骨格標本が、同国のトロムソ大学博物館というところに収蔵されており、それを日本が借り受けて3体のレプリカを制作した。その1つが2013年、ここに設置されたのだそうである(他の2体は山口県下関市と和歌山県太地町という、やはりクジラに縁が深い場所にある)。
巨鯨たちの力がエネルギーに
19世紀の北大西洋をのんびり泳いでいたシロナガスクジラも、まさか自分の骨だけが地上に残されて延々と博物館に展示され、さらに21世紀には、その複製がはるか遠く離れた極東の地で四六時中、人間の見物の対象になるとは夢にも思わなかったろう……。目の前にそびえ立つ骨格を見ながら、筆者は奇妙な感慨にとらわれた。大海を悠々と泳ぐクジラたちの不思議な力は、世界に誇るべき捕鯨業と鯨食文化を400年余りも存続させてきただけでなく、1世紀以上の時間を飛び越えて、ここ房総の地と遠く地球の裏側のノルウェーを結びつけてもいるのではないか、と。
「浩然之気」(こうぜんのき)という言葉がある。古代中国の儒書『孟子』に由来し、「天地に満ちている、大きくて強い正大の気。公明正大でまったく恥じることのない精神。転じて、なにごとにも屈しない道徳的な勇気。また、わずらわしいことから逃れて、のんびりとした心持ちになること」(現代用語辞典「imidas」より)を指す。東京への帰途、房総の緑の山並みを再び車窓から眺めながら思い出されたのが、この言葉だった。
もしあなたが慌ただしい日常を離れて浩然之気を養いたいと願うなら、ぜひ南房総にこの和田浦を訪ねて、ゆるやかな心持ちで太平洋を眺め、みずみずしい空気をたっぷり吸い、そしておいしいクジラ料理に舌鼓を打つことをお勧めしたい。必ずや心身に大いなるエネルギーが湧いて、あなたの人生を後押ししてくれるだろう。その源はきっと、数千万年前という始新世の太古から大海の王であり続けた巨鯨たちのいのちの力と、縄文時代から命を懸けて彼らと渡り合ってきた「いさなとり」の誇りの力であるに違いない。(了)
広部 潤
【筆者プロフィール】 ひろべ・じゅん 1966年横浜市生まれ。広告会社勤務を経て1991年講談社入社。隔週/月刊誌「Views」、「週刊現代」、講談社現代新書、ビジネス書、ノンフィクション書籍、ウェブメディア「現代ビジネス」「クーリエ・ジャポン」の各編集部や法務部を経て、現在、知財・契約管理部に所属。勤務先の仕事の傍ら、複数のNPO法人で、海外出身の子供たちの日本語習得と学校勉強の支援や、地域の子供たちの学習サポートなどをボランティアで行っている。