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サムスン電子の工場でなぜ白血病は多発したのか?(4)  立岩陽一郎

◇国の調査の責任者を直撃

韓国のサムスン電子の半導体工場で働く従業員に白血病などの健康被害を訴えるケースが相次いでいる事件を追ったシリーズ。韓国政府は疫学調査の結果、サムスン電子に問題は無いとしていた。その調査は適切に行われたものなのか。当時の調査責任者を直撃した。
韓国での白血病の発症率は、10万人あたり1人~2人となっている。サムスン電子の工場で従業員が白血病になったケースを疫学調査したところ、この数値を上回らなかったとされた。しかし前述の通り、調査結果の根拠となった具体的な内容は明らかになっていない。
では実際に、どのような調査が行われたのか。私はそれを指揮した人物に接触することができた。
その人物は当時、産業安全保健研究院の幹部だった。前述したように、産業安全保健研究院は、疫学調査を行った政府の機関である。
8月28日の夜、ソウル駅近くの宮廷料理屋に現れた元幹部は、さほど緊張した様子を見せず、名刺交換に応じてくれた。
席に着くと、まず裁判の結果について、「我々は科学的、客観的に調査を行いました。裁判所の判断は、裁判所の判断として尊重されるべきでしょう」と語った。そこには、抗弁するかのような気負いは感じられなかった。調査が科学的だったことと客観的だったことに、自信を持っている様子だった。
では、なぜ疫学調査の内容は開示されないのか? 私が問うと、元幹部は落ち着いた口調で答えた。
「それは私の判断ではなく、勤労福祉公団の判断です。そして、私はもう産業安全保健研究所の人間でもありません。今の私が言えることは、繰り返しになりますが、当時の我々の調査が科学的かつ客観的なものだったということです」
こうしたやり取りが何度か続いた後、私はある人物の名前を出してみた。大阪の胆管がん多発事件で、その発症率が異常に高いものであることを疫学調査で確認した熊谷信二(産業医科大学教授)だ。胆管がんの多発は、熊谷の綿密な調査がなければ社会問題として取り上げられることはなく、私が報じることも難しかったと思う。
当時のことを思い出しつつ、私はこんな話をしてみた。
「熊谷先生という方は、疫学調査をするとき、研究室に籠もって寝食を忘れ、延々と計算を続けるんです。いったんそれを始めると、横に私がいてもまったく気にしなくなる。気の遠くなるような作業ですが、真実に近づこうとする科学者の気骨を見たような気がしました」
すると、これまで滑らかに話していた元幹部の表情に変化が見えた。やがて、おずおずとこう尋ねてきた。
「立岩さん、あなたは熊谷教授をご存じなのですか?」
「はい」
「日本の大阪の印刷工場でがん発症の原因となった化学物質がありますね。ええと・・・」
元幹部が思い出そうとしていたのは「1,2-ジクロロプロパン」のことだ。私たちが胆管がん多発事件の真相を追う中で、印刷会社の元従業員への取材から特定した洗浄剤の原料である。
「『1,2-ジクロロプロパン』ですね。それが今年6月に、IARCで人への発がん性が認められる物質(グループ1)として指定されたことを知っていますか?」
と私が問うと、元幹部は心なしか前のめりになったような姿勢で答えた。
「はい。そのために熊谷教授が奮闘されたことも、日本政府が威信をかけた積極的な対応で発表に臨んだことも知っています。リヨンで開かれたIARCの会合では、参加した政府関係者、研究者がスタンディングオベーションで熊谷教授に敬意を表したんですよ」
「そんなことがあったのですか」
私は少し驚いた。今年6月3日から10日まで、フランスのリヨンで開催されたIARCの研究者会合で、前述のように1,2ジクロロプロパンが「人への発がん性が認められる物質」に指定されたのだが、これは熊谷の尽力によるところが大きい。私はその結果をNHK の国際放送「World News TV」で報じたが、会合で熊谷がスタンディングオベーションを受けるという晴れがましい場があったとは知らなかった。

●「数字のからくり」を明かす衝撃の証言

熊谷への敬意で元幹部と一致点を見出したところで、私はこんな質問を投げかけてみた。
「熊谷教授は私に言いました。発症率を計算するときは、分数の分母と分子に何を入れるかを間違えたら正確な結果は出ない、と。あなたには説明する必要もないと思いますが、分母とは化学物質にさらされた人すべての数、分子とはその中で病気を発症した人の数です。ファン・ユミさんのサムスン電子のケースでは、分母は何だったのですか?」
すると、元幹部はふっと何かを諦めたような表情になってこう答えた。
「調査はいろいろな観点から行いましたが、分母には、韓国国内の半導体産業の工場で働く就労者すべての数を入れました」
「え? サムスン電子以外の企業も含めた、韓国の半導体工場で働く人たち全員ですか?」
「はい。(白血病の発症を)詳しく調べるためには、全体を対象にする必要がありますから」
「で、分子はファン・ユミさん1人だったのですか?」
「はい・・・」
サムスン電子の半導体工場で働く社員だけで、5万人規模に上る。他の大小合わせたさまざま企業の半導体工場の分も合わせると、それをかなり上回る数字になることは容易に想像がつく。その数を分母にし、ファン・ユミ1人だけを分子にすれば、白血病の発症率は当然ながら、10万人に1人~2人という韓国社会全体の数字と同レベルか、それを下回るものになるはずだ。
そして、分子の数が1というのも明らかに不適切である。なぜなら当時すでに、ファン・ユミの同僚数人も白血病で死亡していることが報告されていたからだ。
「分子がファン・ユミさん1人になっているのはおかしくないですか? 彼女の同僚たちも白血病で亡くなっていたわけですよね?」
私は思わず身を乗り出して尋ねていた。「サムスンの半導体工場での白血病発症率を低く算出していた”数字のからくり”の正体がやっとわかった!」という思いで頭が一杯だった。
私に切り込まれても、元幹部が表情を変えることはなかった。しかし、次の言葉は、かなりの覚悟を持って口にしたと思われる。
「実は、その(ファン・ユミ以外にも白血病を発症した従業員がいるという)情報が我々のところに寄せられたのは、調査結果がまとまった後だったのです。驚いた私は『これでは結果が大きく変わってしまう』と部下を叱りました。しかし、すでに記者会見も設定されていたので、今さら発表を延期することはできませんでした」
「それで、そのまま発表したのですか?」
「いえ、正確には私たちは、『因果関係はない』とは言っていません。『因果関係についてはわからない』と発表したのです」
元幹部も科学者だ。その立場上、苦渋の選択をした末に行った発表だったのかもしれない。しかし、会見に出席した新聞やテレビの取材陣には、政府が「因果関係はない」としたと受け取られた。その場にいた医師のコン・ジョンオクは、当時の状況を今も覚えている。
「産業安全保健研究院は会見で、いきなり『科学的な顕著さ』などという言葉を使って説明を始めたんです。記者は皆、そんな専門用語で言われても何もわかりません。私は会見場で、『記者たちにもわかる言葉で説明してください』と発言したのですが、対応してくれませんでした」
コンは、私が元幹部の名前を告げると、「その人物も会見にいました」と証言した。
結局、「職場に問題はなかった」とするサムスン電子の主張が、政府のお墨付きを得たと一般には理解されることになった。その事実が、他の労災申請を却下する根拠にもなっていく。私は元幹部にこう尋ねた。
「『正しいデータに基づく結果は出ていない』という事実は、明確に示すべきだったのではありませんか?」
「ですから、私たちは『今後10年間にわたって調査を継続する必要がある』と会見の資料に記したんです」
記者会見の資料はかなりの分量になったという。その隅々まで詳細に読む記者が何人いるだろうか、と私は考えた。それは日本か韓国か欧米かを問わず、日々のニュースに追われる大手メディアの記者にとっては事実上、困難なことになっている。「それを見越しての対応だったのですか?」とまでは、ひそかに良心の呵責に悩んでいるかもしれない元幹部には聞けなかった。(続く)(続く)
(この原稿は、「現代ビジネス」に掲載された記事を著者の承諾を得て転載したものです)

<<執筆者プロフィール>>

立岩陽一郎

 
NHK国際放送局記者
社会部などで調査報道に従事。2010年~2011年、米ワシントンDCにあるアメリカン大学に滞在し米国の調査報道について調査。

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