定年を迎えた両親に弟の失踪が重くのしかかる。そうした中、「日本人カップルの失踪は外国工作機関が関与」という記事が産経新聞で報じられる。しかし続報はなく、やがて記事は忘れられてしまう。諦めきることなく弟を探し続けて憔悴する両親。家族として弟の救出に奔走した蓮池透がたどる知られざる拉致の記憶。その第四弾。
●住民票の職権削除
弟がいなくなって14年後の1992年、父、母ともに定年退職となり毎日在宅が続く生活となった。一日中息子のことを考えているため、両親は急速に老け込んでいくのが眼に見えてわかった。父は頭髪がいっぺんに薄くなった。母も徐々に顔の血色が悪くなっていった。
死体でもいいから出てきて欲しい、お骨にして弔った方が気が楽だとさえ考えてしまう。もちろん、死がはっきりしたときは悲しいであろうが、時間が経過すればある程度気持ちの区切りがつけられるかもしれない。生きているのか死んでいるのか、まったく分からない蛇の生殺しのような状態は我慢できなったのである。
拉致被害者の家族の中には、安否が不明のまま死亡とみなして葬式を出した人たちがいた。また、戸籍が悪用されるのを恐れ抹消した人たちもいた。これは、北朝鮮の関与がほぼ明らかになった後のことだが、いなくなった人の戸籍を乗っ取ってパスポートを取得し、工作員として活動するケースがあったため、止むを得ないことだった。
私の母は、市役所勤務だったことから、失踪期間が長期にわたる場合、役所の権限で住民票から消去される、いわゆる職権消除というものがあることを知っていた。そうならないために母は、弟の住民票を母の妹の居住地である渋谷区に移し、区長に細かい事情を説明する手紙を出すなどして、職権消除を免れた。もし、そのような削除措置が下され住所不定になってしまったならば、本当に弟がいなくなったことになると思ったのであろう。
●産経新聞のスクープ記事
弟がいなくなって2年後の1980年1月、「サンケイ新聞」(当時)が、若いカップルが短期間のうちに何組も消えているという記事を一面に掲載した。新潟、福井、鹿児島での失踪事件、富山での誘拐未遂事件について、「外国の工作機関が関与か」と報じたのである。
記事を書いたのは、阿部雅美という記者で私の両親にも取材したという。柏崎駅に着いた阿部記者は、全く私の実家の場所が分からず、乗り合わせたタクシーの運転手がたまたま実家を知っていたので奇遇にもたどり着けたことができたという。阿部記者は、他の被害者宅も取材しており、相当の確信を持って報道したと語っていた。