ロシア軍が包囲していたキーウに入った新田義貴。現地の人々の生活に溶け込みつつ紛争下の人びとを取材する。(取材/写真:新田義貴)
3月10日からキーウでの取材を開始。僕らはキーウの西の外れにある通訳イヴァンのアパートメントに寝泊まりすることにした。
旧ソ連時代に建てられたという年季の入った建物にエレベーターはなく、住居のある4階への階段はいつも薄暗い。2DKのつつましい部屋に、彼は奥さんと5歳になる息子と暮らしていた。
ロシア軍がウクライナへの侵攻を開始した翌日、家族を連れて車でキーウを脱出。奥さんと息子は今、ウクライナ西部リヴィウ郊外の知人宅に身を寄せている。
イヴァンの自宅に泊まることは、ホテルのような便利さはない代わりにウクライナの人々の暮らしぶりや思考様式を知るのに重要なヒントを与えてくれる。
毎朝、イヴァンがパンやサラダ、スープを用意してくれ、夜にはボルシチを作って振る舞ってくれた。僕らはお礼の代わりに食器を洗う。食事や寝泊まりを共にすることで、彼との絆も急速に深まっていき友情や信頼関係が芽生えてくる。
戦場では彼なしでは取材はできない。通訳、取材交渉、車の運転、イヴァンは僕らの取材の生命線なのだ。ヨガマットと寝袋を硬い床に敷いて眠るのは少々体に応えたが、それ以上に大切なものを得ることができた。
毎朝、彼の車でキエフ市内に取材に出かける。自宅から10分ほど走るとイルピニ川があり、川の向こうはイルピン、ブチャ、ホストメルなどキーウ近郊の町が広がる。これらの町は主にキーウで働く中産階級以上の人々のためのベッドタウンで、イヴァンも「今のアパートは狭いので、お金を貯めてホストメルに引っ越す計画を進めていた」としみじみと語った。
3月初旬、この地域ではロシア軍との激戦が繰り広げられていた。車窓から川向こうに黒い煙が何本も上がる光景を何度も見た。なんとか川を越えて前線に入れないかと画策していたところ、米TIME誌のアメリカ人契約記者ブレント・ルノーがイルピンの前線取材中にロシア軍の銃撃を受け殺害されたというニュースが飛び込んできた。ルノーは今回のウクライナでの戦争を取材するジャーナリストの最初の犠牲者となった。以降、ウクライナ軍の取材規制が一気に厳しくなり、ジャーナリストは一切前線に入れなくなった。
僕らは戦時下のキーウの人々の暮らしや援助活動などに主眼を置いて取材を続けることにした。そして、市内にある医療センターを訪ねた。イヴァンはこの医療センターに届ける薬などの支援物資をリヴィウから大量に持ってきていた。ここは普段は一般市民のための医療施設だが、戦争が始まってからは前線の兵士を医療面で支援するための後方基地となっていた。
若者を中心に多くのボランティアが応急処置用のメディカルキットの箱詰め作業をしていた。こうした作業を撮影していたところ、小さな子供たちを連れたお母さんと彼女の母親と見られる老女がスタッフに付き添われてやってきた。聞けば、イルピンに住んでいたがロシア軍の攻撃を受け命からがら逃げてきたという。涙ながらに語った。
「町はロシア軍の攻撃で徹底的に破壊され、命の危険を感じて脱出を決意しました。地雷があるかもしれない平原を子供たちを連れて歩き続け、ようやくウクライナ軍の兵士に保護されました」
ボランティアから与えられた食事を終えた家族は、すぐに医療センターの車に乗せられ走り去った。これから列車かバスで西部へ避難するという。彼らが逃げてきたイルピンなどキーウ郊外の町で住民たちに何が起きていたのか、その恐ろしい惨劇は後に明らかになる。
(つづく)
※これまでキーウをキエフと書いてきましたが、ほぼ全てのメディアでキーウと表現する状況となりこの連載でも以後はキーウと表記します。