仕事を持つ両親は、休みになると弟を捜しまわった。しかし手掛かりは何も出てこない。警察は動いてくれない…。家族として弟の救出に奔走した蓮池透がたどる知られざる拉致の記憶。その第三弾。
●家族で捜し回る日々
弟がいなくなった当時、父は教師で母は柏崎市役所の職員だった。父は学校が夏休みだったが、母は不明になった次の日から仕事がある。職場にいながら息子がいなくなったことで苦しい日々を送っていたと思う。私は、8月中旬、当時勤務していた福島から帰省する予定だった。
弟は、そのうちふらっと戻ってくるのか、重大な事件に巻き込まれてしまったのか、それともその中間なのか、なにせ何も手がかりのない中、私たち家族は気持ちをどのような方向へ持っていったらよいのか、まったく分からない状態であった。いっそのこと、誘拐犯から身代金要求の電話がかかってきた方がどれだけ楽だろうかとさえ考えていた。
父は長い間小学校の教師勤務を経て、事件当時は地元の養護学校(現在の特別支援学校)の教師をしていた。父は、息子の心配をあまり口にしなかったが、黙々と自ら捜索をしていた。母からは福島にいる私に度々電話がかかってきた。
「今日も帰って来なかった。本当にどうしたんだろう」
「・・・」
同じ会話の繰り返しに、私も返す言葉を見つけられないことが多くなっていた。
時折は、私から電話をかけた。
「何か手がかりあった?」
「何もないよ・・・」
「そうか・・・」
●警察からの情報はなく
時間が止まっているような気がして、胸が詰まった。狐につままれたという感覚だろうか、「不思議だ」と言うしかないのが率直なところだった。
当時の実家は、祖父、祖母そして両親の4人暮らしであった。祖父母は、孫のことを非常に心配していたが、祖父は結局、孫の顔を見ることなく他界してしまった。祖母は、24年間弟を待ち続け再会することになるが、孫の顔を見て気が緩んだのか、その1年後に亡くなった。
弟がいなくなってからの1年間程は、両親は仕事が休みの度に広範囲を捜し回り、私もできる限りのことをしていたつもりだ。一方、警察は捜査している様子すらなかった。こういうことは言わない方がいいと言う人もいるが、事実だけは書いておきたい。弟の行方がわからなくなった後、それに一部で北朝鮮の関与がささやかれ始めた後に至っても、警察から弟の情報など一切もらったことがない。これを警察批判というなら警察批判ととらえてもらっても構わない。もちろん、警察には目の前に対応すべき多くの案件があったのだろう。しかし、私達の願いについては、対応していたと思える事実は無かった。それが現実だ。