●兄と弟
普通にそこにいたはずの弟がいないのはなぜかと思うと、むしょうに腹が立った。悲しい気持ち、苦しい気持ちもあったが、怒りもあった。
「なぜいなくなったんだ。早く帰って来い。この馬鹿野郎」
そういう気持ちは強かった。
希望を持ったり、諦めたり、さまざまな感情が渦巻いていた。その気持ちは、こういう目に遭った人間でなければ分からないだろう。両親とも昼間は仕事をしているため、少しは気が紛れたかもしれないが、仕事が終わった後はずっと息子のことを考えていたはずだ。
横田めぐみさんの母親の早紀江さんは、専業主婦だったため、夫の滋さんが会社へ、息子さんたちが学校へ行った後は、家に一人残され何度死のうと思ったか分からない、と話していた。
私たち兄弟は、小さな頃から兄と弟という上下関係について堅いものがあった。「お兄さんが言ったことに反抗するんじゃない」と両親はもちろん、祖父母にも言われていた。私の言うことを聞かざるを得ない状況であったことから、弟には「何くそっ」という反骨精神のようなものが芽生えていたようである。しかし、兄弟の仲は良くも悪くもない、普通だった。
弟は、中学時代は野球に没頭していた。弟が野球少年だったことは帰国後にキャッチボールをする姿が報じられたので覚えている方も多いと思う。それが、高校生になると一転、それまで全く家族で話題にならなかった演劇部に入ると言い出した。どのような心境の変化があったのかはわからないが、あまり周囲にどう思われるかなどは気にしない人間だったような気がする。
弟が高校の修学旅行に祖父のレインコートを着て行ったのを覚えている。その頃、古ぼけたレインコートを着た刑事が主人公の「刑事コロンボ」というアメリカのテレビドラマが流行っていた。ひょっとしたらその影響だったのかもしれないが、今で言えば古着、ヴィンテージなのだろうが、着古した洋服を好んで着ていた。
要は、せかせかせず、マイペースでのんびり屋、悪く言えば、ずぼらだったように私には見えた。後述するが、今の弟はそういう点について、大きく違う…。少なくとも私には、変わったように見える。
●学費を払うのを止めなかった両親
当時の弟についてさらに話を進めよう。弟は高校卒業後、中央大学法学部に進む。学生時代の弟は政治にはあまり関心がなく、野球が大好きで大学の体育の授業でも野球を選択し、その成績だけは良好だった。
私が大学4年、弟が1年のとき、東京中野のアパートで1年間だけ同居していた。六畳一間だったが、こんなエピソードがある。ある日私が、部屋のカーペットを新調したのだが、弟が麻雀をしてタバコの火を落とし焦がしてしまった。私がひどく怒ったところ「座布団を敷いておけば見えないじゃないか」と言うのだ。呆れたものだが、これも、細かいことに気を止めない大雑把な性格から来た一言なのだろう。
弟は、法学部であったことから、将来は弁護士が司法書士になりたいと考えていたようだ。将来地元で開業することになったら、父に土地を提供して欲しいという話もしていた。
父は「いくらでも協力するから頑張れ」と励まし、快諾した。私と弟、それに妹の3人の子供全員が家を離れての生活だった。実家は、両親と祖父母と4人暮らしになっていた。弟が帰ってきて地元で開業したいというのは、両親にとってはさぞ嬉しい言葉だったのだろう。
弟が大学3年のとき、中央大学は千代田区から八王子市に移転した。その年、私は東京電力に就職し、あの福島第一原子力発電所勤務となった。このため、弟は中野の私のアパートから八王子のアパートに引っ越すことになった。
弟の行方がわからなくなった数ヶ月後、私は、弟が八王子のアパートに帰っているのではないかと期待して訪ねていったことがある。大家さんに鍵を借り、「いてくれ!」という思いでドアを開けたが、もぬけの殻でがっかりしたことを覚えている。
両親は、そのアパートの家賃をしばらく支払っていたが、そう長くは続かず引き払った。しかし、大学の方は、期間満了で除籍となるまで学費を払い続けた。大学を辞めたということは、弟が帰ってくるのを諦めたことに等しいという考えがあり、絶対に辞めさせたくなかったのだろう。辛かったと思う。
(続く)
<<執筆者プロフィール>>
蓮池透
1955年新潟県柏崎市生まれ。東京理科大学理工学部卒業。 東京電力に入社し、原子燃料部部長などを歴任、2009年退社。その間、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」事務局長、副代表として拉致問題の解決に尽力。2010年、考え方の違いから同会除名。著書に「奪還 引き裂かれた24年」(新潮社、2003年)、「奪還第二章 終わらざる闘い」(新潮社、2005年)、「拉致 左右の垣根を超えた闘いへ」(かもがわ出版、2009年)、「私が愛した東京電力 福島第一原発の保守管理者として」(かもがわ出版、2011年)など。