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【化学物質の脅威③】サムスン電子で起きたこと(前編)  

【化学物質の脅威③】サムスン電子で起きたこと(前編)  

サムスン電子の工場で白血病はなぜ多発したのか 【前編】~

日本での化学物質被害を取材した私は、当然、それはアジアの各国でも起きているだろうと見て取材を進めた。それは間違っていなかったが、よもや韓国を代表する巨大企業で起きているとは知らなかった。2013年、声をあげている被害者がいることを知り、ソウルへ飛んだ。(立岩陽一郎)

私は2012年、大阪市の印刷会社の従業員たちに胆管がんが多発しているという異様な事件を取材し、その原因が洗浄剤として使われていた化学物質にあることを突き止めて「現代ビジネス」などで報じた。

私は当時の取材を通じて、工場で使用している洗浄剤が、現代社会にとって想像していたよりもはるかに不可欠な存在になっていることを知った。そして、洗浄剤として使われる化学物質に、強い分解力と速乾性が求められていることも知った。

言うまでもなく、これは印刷業界のみに特有な問題ではなく、まして日本のみに特有な問題でもない。どの産業も、どの国も、洗浄剤とそこに含まれる化学物質と無縁ではいられないのだ。

胆管がんを引き起こした洗浄剤を作っていたメーカーの工場長は、私の取材に対してこう言った。

「印刷業界なんて、洗浄剤を利用している量で言ったら、大したことはありません。金属産業、それに半導体産業などはかなりの量を使っています」

彼の言葉はウソではなかった。実際、よく似た事件が、隣の国の半導体産業の現場で起きていたからだ。

舞台は今、世界を席巻している巨大企業の工場。そして、現場の人々を蝕んでいた病気の名は、白血病だった。

白血病にかかったファン・ユミさんは、この写真撮影から数ヵ月後、22歳の若さで亡くなった

白血病にかかったファン・ユミさんは、この写真撮影から数ヵ月後、22歳の若さで亡くなった

裁判所の判決

2013年8月21日、韓国のソウル高等法院が出した判決は、サムスン電子に衝撃を与えた。

「被告の訴えを却下する」

サムスン電子の工場で使われていた化学物質によって従業員が白血病を発症したことを、裁判所が、一審に続き二審でも認めたのだ。

被告は、労働災害(労災)の認定を行う政府機関の勤労福祉公団だった。原告は、サムスン電子で働いていて白血病を発症し、22歳の若さで死亡した女性、ファン・ユミの遺族。裁判は、勤労福祉公団が「ファン・ユミの死は労働災害ではない」と決めたため、遺族がその決定の取り消しを求めて起こしたものだ。

第二審の判決は、具体的な化学物質との因果関係には言及していないが、次のような認定をした。

「死亡者(ファン・ユミ)らは、業務遂行中にベンゼンなどの有害物質と電離放射線などに暴露したことで急性骨髄性白血病を発症して死亡したか、または少なくとも上記の露出が発病及びこれによる死亡を促進した原因になっていたと推認できる。したがって、死亡者らの業務遂行と死亡との間には相当な因果関係がある」

この件に興味を持ち、日本からフォローしていた私にとって、判決は取材を進める大きなチャンスだった。ファン・ユミの遺族を支援している関係者に聞くと、

「韓国では、一審の判決が引っ繰り返ることはありますが、二審の判決が引っ繰り返るのは稀です。二審の結果が出たことの意味は大きいですよ」

という返事だった。私はすぐ韓国に飛んだ。

「サムスンと闘って、勝てると思っているのか」

首都ソウルから東に直線距離で約150㎞のところにあるソクチョ市。3時間半ほど車を飛ばして到着した同市は、日本海に面し、のどかな田舎町の雰囲気を残していた。

勝訴した原告のファン・サンギは、この地でタクシー運転手として働いている。白血病で亡くなったファン・ユミの父親だ。わざわざ仕事を休んで、私を小さな平屋の家に迎えてくれた。

「日本からよくいらっしゃいました。韓国のマスコミはこの問題をなかなか取り上げてくれないんです。本当に嬉しいです」

ファンの言う通りだった。私は日頃から韓国のメディアもウォッチしているが、この問題が報じられたのはあまり見たことがない。今回の裁判の結果は通信社が配信しているが、私の知る限り、それを大きく取り上げた韓国の新聞やテレビはない。

小柄で優しそうな表情のファンは、淡々とこう打ち明けた。

「ある大手のテレビ局に、この件を報道してほしいと相談に行ったことがあるのですが、『サムスン電子で働いていて白血病になった? それなら証拠を持ってこい』と言われただけでした」

「それは、相手がサムスン電子だからですか?」

「ええ。この国は”サムスン共和国”ですから・・・」

年間の売り上げが日本円で20兆円を超えるサムスン電子は、韓国では圧倒的な存在感を持つ巨大な企業グループだ。韓国でよく聞く話に、「サムスン電子は韓国のGDPの20%を稼いでいる」というものがある。もちろん、厳密な計算を経た数字ではないだろうが、韓国のGDPが130兆円余りであることを考えれば、感覚としては当たらずと言えども遠からずといったところかもしれない。

実際、韓国の街を歩いていると、ひっきりなしに「SAMSUNG」の文字を目にする。半導体、スマートフォン、高画質テレビ、自動車、そしてマンション建築と、至るところに広告や宣伝が出ているのだ。ファン・サンギという一人の初老の男性が、そんな巨大企業との闘いで相当な孤立感を覚えたであろうことは想像に難くない。

それにしてもファンは、なぜ、娘の白血病の原因が工場で使われていた化学物質にあると考えたのだろうか。

「(白血病を発症したのが)娘だけではないと聞いたんです。彼女の職場での先輩も白血病になったとか。そこで私は、具合が悪くなって苦しそうに横になっている娘に『いったい工場でどんな作業をしていたんだ?』と細かく尋ねていったんです」

ファン・ユミの仕事は、ウェハーと呼ばれる半導体の基盤を洗浄する作業だった。DVDを二回りくらい大きくした半導体の基盤50枚を束ねたものを、液体の中に入れて洗う。彼女はその作業を繰り返していた。

「液体が入った水槽があって、その中にウェハーの束を入れ、しばらく浸けてから出す。新たなウェハーが来たら、また同じことをする。それが朝から晩まで続いたそうです。部屋の中は異様な臭いがしていたと言います」

現場の従業員に簡易なマスクは貸与されたが、暑さと息苦しさとで外してしまう人が多かったという。

ファン・サンギは、娘を亡くした後、その死亡について労災申請をするとサムスン電子側に伝えた。そのときのサムスン電子の担当者に言われた言葉が今も忘れられない。

「サムスン電子と闘って勝てると思っているんですか?」

裁判では、前述のような二審の結果が出て、勝った形にはなった。しかしファンには、自分が勝ったという思いはないという。

「この裁判は、ほんの一歩です。まだ多くの人が娘のように苦しんでいます。その人たちのためにも裁判に勝ったことは大きいと思いますけど、サムスン電子が方針を改めるまで、やることはまだ多くあります」

健康だった夫が、急に35歳の若さで死亡

ファン・サンギがそう考えるのには理由がある。裁判で争われたのは、5人の元従業員の白血病の発症を労災とするかどうかという点だった。ところが裁判所が労災と認めたのは、ファン・ユミと、同じ職場にいたイ・スギョンの2人についてのみ。

これは、ファン・サンギが前述のように、娘の生前から聴き取りなどをしていたことが功を奏したと思われる。しかし他の3人についての裁判所の判断は、「白血病と職場との因果関係を立証するには証拠が不十分」というものだった。

判決から6日後の8月27日。サムスン電子本社ビルの前で、大きな声を張り上げる数人の人々がいた。その中の一人の女性は、涙を流しながらこう声を振り絞っていた。

「判決にあなた方は満足でしょうが、私は胸が張り裂けそうです!」

サムスン電子の半導体工場で働く夫を白血病で亡くしたチョン・エジョンだった。先に紹介したファン・ユミと違って、夫には労災が認められなかったのだ。

元気だったころのファン・イヌンさんと妻のチョン・エジョンさん(遺族提供)

チョンもかつてサムスン電子に勤務しており、夫とは同社で同僚として知り合った。職場結婚だった。

夫のファン・ミヌンの写真を見せてもらった。赤いTシャツを着て、テレビでサッカーのW杯を観戦している様子を撮ったものだ。男前のスポーツマンタイプに見える。

「夫は運動が好きで、病気一つしたことがありませんでした。それが急に体調を崩し、病院へ行ったら、白血病と診断されたんです。今も信じられません」

ファン・ミヌンはその後、骨髄移植の手術を受けたが死亡する。35歳の若さだった。

「サムスン電子は、私が(本社ビルの前で抗議の)声を上げると、すぐに警察を呼んで逮捕させるんです。すでに2回、逮捕されています。この前は、あなた方(取材陣)がいたからそうはしませんでしたが、普段はもっと厳しいです。私も夫もサムソン電子で働く従業員だったのに、ですよ・・・。

だから私はサムスン電子の皆さんに尋ねたい。『それでもあなたたちは、グローバル企業の社員なのですか?』と」

チョン・エジョンは今、夫の忘れ形見である娘を育てながら強く生きようと決意している。「保育士として働きながら今後も裁判を闘い続けます」と語った。

どんな化学物質が使われていたのか

サムスン電子本社の前には、黙って抗議の意思を示している女性もいた。隣で声を上げている前述のチョン・エジョンとは対照的だ。やはり敗訴した原告の一人で、名前をキム・ウンギョンという。

彼女は1991年から96年まで、主にサムスン電子のオンヤン工場で働いた。真面目な勤務ぶりが認められ、やがて現場の責任者も務めた。

ところが2005年、白血病を発症してしまう。今は抗がん剤治療を受けながら、教会でボランティア活動をしている。やはりサムスン電子で出会った夫は、同社を辞めて別の会社で働いている。

自宅で取材に応じるキム・ウンギョンさん

キム・ウンギョンは半導体工場で、ウェハーに載せる半導体のチップを作る仕事をしていた。

「チップの周辺に、虫の足みたいに細いものが何本か出ているでしょ。あれを折り曲げる仕事でした」

折り曲げた後に、必ず行う作業があった。洗浄である。目の前に置かれた容器に液体が入っており、それをティッシュペーパーにつけて、チップを何度も拭く。

「液体はすぐになくなります。だから、液体がたくさん入った大きなタンクのところに何度も補充に行かなければなりませんでした。水のように大量に使っていましたね」

キムは、その液体が何であるかを教えられていなかった。しかし、容器に「TC」と書かれていたのを覚えていた。

TC—トリクロロエチレンだ。WHOの付属機関で、化学物質の発がん性を認定している国際がん研究機関(IARC)が、「人に対する発がん性が認められる」(グループ1)と規定している物質だ。そして、キムが発症した白血病は、血液のがんである。彼女はこう振り返る。

「使っていた液体がそういう化学物質だなんて、私はまったく知りませんでした。サムスン電子では、作業の後に研修のようなものがありましたが、化学物質については何も説明がありませんでした。私は主任まで務めて、新しく入ってきた従業員に作業を教えていましたが、私でさえ知らないことを、その若い子たちが知るはずもありません。彼女たちの健康が本当に心配です」

ソウル高等法院は判決で、彼女の使っていた液体がトリクロロエチレンであると認定はした。しかし、次に不可思議な判断を下す。

「トリクロロエチレンには発がん性が確認されていない」

としたのだ。なぜ、こんな事実と異なる判断となったのか。

調べてみると、どうやら時間の前後関係によるらしいということがわかってきた。IARCがトリクロロエチレンを「人に対しておそらく発がん性がある」(グループ2A)と認定したのは2012年である(その後、今年になってグループ1に”昇格”した)。一審が始まった09年時点では、まだ発がん性が強く認識されていなかった(とはいえ、2000年代初頭から、各種の調査でトリクロロエチレンの発がん性は指摘されていた)。二審であるソウル高等法院は、一審で出された資料から判断した可能性が高い。

二審の判決が出た後、キム・ウンギョンは、トリクロロエチレンが発がん性の認められた化学物質であることを確認して、上告した。

異変を見過ごさずに動いた女性産業医

日本からこの問題をフォローする上で最大の情報源となってくれたのは、医師のコン・ジョンオクだった。正義感の強い女性で、産業医として原告のさまざまな相談に乗っていた。

日本の研究者から紹介を受け、私は彼女と英文の電子メールでやり取りを続けた。送られてくる英文を読むたびに、相当な秀才だと思っていたが、ソウル市で会った彼女は気さくな感じで、笑顔が印象的な女性だった。彼女はこう語った。

「20代、30代の若い人たちに白血病の発症が続けば、普通、どの産業医だって、『何かがおかしい』と思うはずです。そう思わない方が不自然なんです」

集会で訴えるコン・ジョンオク医師(本人提供)

ファン・ユミが死亡した2007年、ソウル大学医学部に在籍していたコン・ジョンオクは、「サムスン電子で働く女性たちの間で白血病の発症が続いている」という情報を耳にして、調査に乗り出した。一方、ファン・ユミの死は、大手メディアにこそ取り上げられなかったものの、その事実と遺族の思いはインターネットを通じて拡散した。そして韓国社会に少なからず衝撃を与えた。

国民から驚きの声が上がる中、父親から労災の申請があり、またコンらの熱心な働きかけもあって、韓国政府が調査に乗り出した。勤労福祉公団傘下の産業安全保健研究院が、ファン・ユミのケースを含めたサムスン電子従業員の白血病の発症について、疫学調査を行ったのだ。ところがその結果は、

「韓国の一般環境における白血病の発症率と比べて、サムスン電子での白血病の発症率は特に高くなく、白血病と職場環境との間に因果関係は認められない」

という趣旨のものだった。コンはこう振り返る。

「(調査結果が発表された)記者会見はひどいものでした。でも、マスコミは『疫学調査の結果、(ファン・ユミの死は)労災ではありませんでした』と聞かされて、納得してしまったんです。私たちは『それでは何も解明されていません』と主張しましたが、まったく取り上げてもらえませんでした。その結果、ファン・ユミさんの白血病は、サムスン電子の工場の環境とは関係ないということにされてしまったのです」

コンは情報公開請求制度を利用して、疫学調査の元データの開示を求めた。しかし、その内容は開示されなかった。彼女はまた、サムスン電子に対しても、工場で利用している化学物質について情報を開示するよう求めている。しかしサムスン電子は、供給先との契約で開示できないとして拒否している。

亡くなったファン・ユミが勤務していたキフン工場については、使用している化学物質に関するデータが裁判記録にある。韓国政府が調査した結果を裁判所に提出したものだ。それによると、工場内で確認された化学物質は99種類あり、そのうち10種類については「納入業者の営業秘密となっている」ため成分を確認できなかった、とされていた。

しかしコン・ジョンオクは、「その調査結果は信用できません」と語る。

「ソウル大学医学部のある教授が、比較的規模の小さい半導体工場で、どのくらいの量の化学物質が使われているかを調べた数字があるんです。その結果は、424種類の物質というものでした。サムスン電子のキフン工場は、世界有数の規模を誇る同社の基幹工場です。小規模の工場でも400種類以上の化学物質を使っているのに、巨大なキフン工場が99種類しか使っていないとは思えません」

続く

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