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化学物質はどうやって体内に取り込まれたのか 調査報道シリーズ/化学物質の脅威⑥

化学物質はどうやって体内に取り込まれたのか 調査報道シリーズ/化学物質の脅威⑥

7万の化学物質に囲まれる日本の生産現場。その現状は、実はあまり知られていない。化学物質はどのようなことに使われ、それを扱う人にどのような健康上の被害をもたらす恐れが有るのか?このシリーズでは、大阪の印刷工場、韓国のサムスン電子の半導体工場などで多くの従業員ががんになっている状況を伝えてきた。 そこから工場での作業に従事する人々が危険と隣り合わせであることがわかる。しかし、大阪と韓国の例は労働災害と認められたので、まだ救いは有るとも言える。 更に深刻なのは、労働災害とも認定されずに苦しむ人々が多くいるだろうことが予想される現状だ。前回に続き、新田徳(仮名)の状況を伝える。新田は膀胱がんになったが、労災の認定を受けられずにいる。(取材、文:立岩陽一郎、写真は取材を通じて関係者から入手したもの)

新田が派遣されていた中国工場の生産ライン

1通の書面

私の手元に1通の書面がある。新田の勤務する会社の内部文書だ。書いたのは、会社の社会保険労務士だ。

会社の内部文書

これは会社側の質問に社会保険労務士が答えたものとなっている。先ず、会社側の質問が書かれている。それは次の様な書き出しだ。

「中国提携工場に駐在及び出張していた社員が、帰国後3年9カ(月)後の現在に於いて膀胱がんの疑いがある」

つまり、新田のことを言っている。それは次の様に続く。

「当時の勤務地である中国の縫製工場(蘇州)に於いて、アウター製品の臭い検査の際に、現在その使用が禁止されている特定芳香族アミン(以下、アミンという)に曝露した事が原因で膀胱癌を発症させた可能性があり、労働災害の可能性がある」

この特定芳香族アミンとは新田が膀胱がんの原因と見るCI酸性という染料を構成する化学物質だ。いくつかの種類があり、全てが発がん性を指摘されている。化学物質が 皮膚から体内に吸収されることを経皮曝露という。新田の作業で疑われるのはこの経皮曝露だ。

つまり、会社は、新田が中国での作業で化学物質に曝露して膀胱がんになった可能性が有るとして、会社の社会保険労務士に問い合わせをしている。

これについて社会保険労務士は、それには「新田氏(原文は本名)が特定芳香族アミンに曝露したことについての立証」が必要になるとして次の様に書いている。

「『有害芳香族アミンに変化しうる一部のアゾ色素』を含有する染料を使用していたかどうかを立証しなければなりません。この立証ができなければ、(新田は)労災申請しても労災認定されない筈です」

「認定されない筈です」と書かれている

この「この立証ができなければ、(新田は)労災申請しても労災認定されない筈です」という一文が興味深いのは、この社会保険労務士と会社との間の意見のすり合わせを伺わせるからだ。

また、仮に、新田が「中国において特定芳香族アミン22種類が使用禁止になっていることを知りながら」として、次の様にも書かれている。

「(新田が)この点をチェックせず、見過ごしていたならば新田氏(本文では本名)に重大な過失があったのではないかと判断される」

この書面を読んでわかるのは、社会保険労務士は、会社側の意向に沿って、如何に新田の膀胱がんが労働災害ではないかを立証する協力をしているということだ。加えて、「新田に重大な過失があったのではないかと判断される可能性はある」とまで書き、会社の弁護どころか、新田を貶める手法まで伝授しているから驚きだ。

この書面が書かれたのが2015年10月24日だ。新田が会社に相談して2週間後のことだ。

つまり、会社は新田が相談したその最初から、労働災害ではないという方向で決着させたいと考え、その後の労働基準監督署の判断は会社の希望に沿った形となっている。

再手術

前回報じた通り、新田は膀胱がんを再発させた。そして手術。私は、その手術が終わって暫くした2020年1月半ばに新田と再会した。

「手術は成功しました。腫瘍は全てとりました」

そう話す新田は弱弱しい。顔色も悪い。体調は悪く、頻尿に悩まされているということだった。医師からは周辺の表皮全体を削る治療をした方が良いと言われたのだという。

「取り除いたものの、まだ周囲に腫瘍が残っている可能性が有るということで、周辺の表皮を削る治療を行った方が良いということです」

正直、聞くのがつらい話だ。どうするのか?身体への負担が大きいので、それをやらずに3か月後の検査を待つことにしたという。その検査も考えるだけで卒倒しそうな検査であることは前回書いている。

化学物質はどのように体内に取り込まれたのか

新田の経歴を振り返りたい。新田は、首都圏の私立大学を卒業してある企業の社員として中国で勤務していた。これは海外で働きたいという新田の希望でもあった。ただ、もう少し大きな企業で働きたいと考えている時、今の衣料品メーカーの中国駐在に空きができた。

清潔感に欠けた工場だったと新田は記憶している

名前の知られた企業だったので応募して、最初は嘱託採用となった。2007年9月のことだ。中国・蘇州の工場での品質管理が主な業務だった。真面目な勤務が評価され、2010年2月には正社員になっている。

工場は1000人規模の現地、中国の企業だ。その縫製ラインの9割で新田のメーカーの商品を作っていた。

「例えば、パーカーとかといったアウター商品などの上に着るもの。Tシャツなどのインナーなども作っていました」

糸から製品まで作る。その間に、染色がある。そこで化学物質に曝露した・・・新田はそう考えている。

新田は工場に併設された事務所で働いていた。社員はみな中国人だ。指示は東京の本社から来る。毎日の様にメールやスカイプ、電話でやり取りをしていた。ある日、上司の部長から連絡が入った。

「ドライ糸を送るから、これを製品化したい。糸を編み立てて吸水速乾の製品を製造する」

吸水速乾とは、水を吸い込み、直ぐに乾くということだ。その糸で衣服を作れば、高機能な服ができる。それがメーカーの狙いだ。

勿論、通常のラインは稼働させる。だからこれまで通り、パーカーなどは製造する。その上で、試作品を作ってはその出来栄えをチェックする。その仕事が新たに新田に加わった。

「2009年12月頃から、送られてきた糸を編み立てて生地にしてそれを染色して、いくつかパターンを作るんです」

その糸を染める染料には、酸性染料とかアルカリ系染料とかいろいろある。柔軟剤も入れる。糸、染料の種類に加えて温度、作業時間などの加工条件の異なる様々な試作品を作って、そこにスポイトで水を垂らして2秒以内に吸い込むと合格。それを繰り返す。その確認作業が新田の仕事だ。

部長からは、「臭いも嗅いでくれ」と言われている。染料の化学物質の臭いが生地に残ることが多いからだ。

「鼻を突いたような刺激臭でした。臭いが残らないようにして出荷するのですが、製造工程で臭いが残り、製品を出している日本の量販店などから、異臭のクレームが時折来ていたということもあるんです」

勿論、吸水速乾の衣服は試作品段階だから店頭に並ぶことはない。ただ、試作品段階でも入念なチェックが求められたという。今となっては、この作業が新田を膀胱がんにした疑いが有るのだが、その時は勿論、この作業が危険だとは思っていない。新田は振り返る。

「どんな化学物質を使っていて、それがどういう成分かなどは、一切、説明は有りませんでしたから」

結局、その試作品の検査は半年くらい続けた。

「週平均で3日ほどはこの作業を行っていました。ドライの糸が次々に送られてきて、それが生地になってから私がチェックするんです。その都度、5パターンくらい作って、それを一枚一枚確認していました」

その時の作業について新田自身が書いた絵を前回、掲載している。指先だけでなく、鼻にも染料が付着したという。ここが経皮曝露が疑われる点だ。

新田が描いた当時の作業の様子

その工場の脇に、染色につかう溶剤のポリタンクが置かれていたのを新田は覚えている。中国人の従業員から、「染色に使うのはこれだ」と言われていたからだ。タンクは、高さ5,60センチ。直径は30センチほど。ラベルに「CI酸性」と書かれていた。これが発がん性のある化学物質だと知っていれば、「少なくとも臭いはかぎませんでした」と新田は話す。

工場内に置かれていたポリタンク こうした中に「CI酸性」と書かれたものがあったという

この試作品の製造は半年ほどで終わる。

「期待した効果が得られなかったので製品化は厳しい」という判断が、部長から言われたという。2012年2月に帰国。本社勤務を始めて1年余り後の2013年9月に血尿が出ている。そして、膀胱がんと診断された。

40代という若さでの膀胱がんは珍しい。医師も労働災害の可能性を示唆していた。新田はその時の会社の総務とのやり取りを覚えている。

「それは、労災の可能性が有りますね。手続きを確認します」

そう総務の担当者は、言った。その同じ担当者の名前が、冒頭の社会保険労務士とのやり取りの書面に記載されている。

書面で会社は、「アウター製品の臭い検査の際に」と、新田の作業を記述している。ところが、会社は、後の労働基準監督署への説明では、「臭いの検査」という作業は存在しなかったとしていた。

次回は新田の労災申請の過程と会社の対応に迫る。(続く)

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