1990年代、私はNHKの記者としてイランで取材をしていた。そこで私は多くの事を学んだが、最も重要な学びは、どのような国でも人々の考えは多様で、けして一枚岩ではないということだった。以来、私が国際情勢を見る際の重要な指針となっている。(文/写真:立岩陽一郎)
カルバスチの逮捕
私の不安は的中した。自らをハタミ大統領の強力な支援者と称していたテヘラン市長のカルバスチが汚職で逮捕されたのだ。その情報を伝えてきた人物についてはここで書くことはできない。司法省に情報源を持つ友人とだけにしておきたい。
友人は支局に来るなり、イラン国営放送の音を最大限にした上で私の耳に顔を近づけて言った。
「カルバスチが逮捕された。保守派の反撃が始まった」
友人の情報に間違いない。しかし直ぐに書いては友人の身も危ない。私は半日置いてから東京のNHKに連絡して原稿を出す旨を伝えた。日本は既に夜8時を過ぎていた。その時間帯は担当の柳沢デスクではなく、夜勤デスクとやり取りすることになる。この日のデスクは中国専門家として知られた加藤青延氏だった。中国という、厳しい監視下での取材をこなしていた人だけに、うるさいことは言わずに直ぐにニュースに出してくれた。恐らく、そこで何度も電話でやり取りをしていれば、原稿を出す前に警察に踏み込まれていただろう。
取材対象だった地元編集長が襲われる
テレビニュースはリポートと呼ばれる企画ニュースと、「書き原」と呼ばれる原稿のニュースとがある。社会部の記者は圧倒的に「書き原」が多いし、そこで他社より先にニュースを出すことが求められる。ところが特派員はそうではない。基本的に企画ニュースを出すことで評価される。顔を出して名前を売るということだ。
私は圧倒的に「書き原」が多かった。それはNHKでも当時話題になっていて、報道局メモという報道局幹部のメモで当時の報道局長から、「最近、イランから書き原の特ダネがかなり出ている。特派員も企画ニュースにこだわらずこういう取材に力を入れて欲しい」と書かれたことがある。
しかし、30手前の若造がこういう評価をされると、余計にデスクの中に不協和音を生むのは世の常だ。それを心配した柳沢デスクから、「一本、企画ニュースを出してほしい」と要望が来た。
それで取材をしたのは、ハタミ大統領の登場によって自由の風が吹き始めたイランという企画だった。新聞社や国営テレビ局のIRIBを取材してこれまでと違う状況を伝えた。IRIBは生番組を始めていた。これは情報統制の厳しい国では極めて珍しいことで、ハタミ大統領の側近ともいえる情報大臣の強い意向で始まったとされる。そして、イランに吹き始めた新しい流れは、当時のNHK「ニュース9」(いまの「ニュースウォッチ9」の前身)で報じられた。
ところが、その翌日、アリが支局に飛び込んできた。
「ボス、新聞社の編集長が襲われました」
「なんだと?」
真っ青になったアリが言うには、こういう話だ。NHKの取材を受けた新聞社に暴徒が集団で押し入り、インタビューに応じた編集長を傘の先で刺したという。編集長は命に別状はないとのことだが重傷だという。
「アリ、その新聞社に行くぞ」
話を聞いた私は直ぐにドライバーのハッサンに車を出すように言った。ところが、アリは動かない。
「どうしたアリ?」
「ボス、ダメです。行ったら危ない」
その時、マームードはいなかった。何事にも動じないカメラマンの彼がいれば・・・と思ったが、仕方ない。自分でカメラを回すしかないと、カメラを抱えて車に乗り込み、新聞社に向かった。
新聞社に着くが、当然、ハッサンは車から降りない。仕方ない。通訳なしでの取材だ。カメラを持って新聞社に乗り込んだ。社内はまだ暴徒が暴れた痕跡をとどめており、棚が倒れ、書類が散乱していた。周囲の人々にどうやって暴徒が入り編集長を襲ったのか、勢いで尋ねた。英語と覚えたてのファルシー(ペルシャ語)のチャンポンだ。
なんとか取材になったので支局に戻った。そして柳沢デスクに連絡してあらためて「ニュース9」に出した。
暴徒は当然、保守派の差し金だろう。当然、その事実はイランでは報じられない。またも、うれしくもなんともないNHKの特ダネとなった。
後日談がある。この後、カメラマンのマームードが支局に姿を現さなくなった。無事だとは聞いたが、NHKで仕事をすることが問題となったようだった。恐らく、情報省とつながっているアリが何かしら画策してのことだろうが、その点は想像の範囲でしかない。
テヘラン大学の集会とモンタゼリ師の教え
JETROの美女Mとはその後、一度だけ話す機会があった。それはJETROの事務所に行った時のことだ。事務所を出る間際に話しかけられた。
「テヘラン大学で学生たちが小さな集会を開いています。あなたは関心を持つと思います」
そして一枚の紙を渡された。そこには場所と日時が書かれていて。それは集会と言っても、夜中の集会だった。
当然、イランには集会や結社の自由はない。念のためだが、日本人の駐在員やそのご夫人方にしても大人数で集まることは、日本大使館でのレセプションや日本人学校での行事などを除いては避けていた。
本当に学生が集会など、開いているのだろうか?
そう思いつつMにもらった紙の通りにテヘラン大学の近くの場所に行くと、半地下のような部屋に大学生らしき数人が集まっていた。こういう取材では支局員のアリは使えない。当然、彼は司法省とつながっているからだ。ここにはカルバスチ逮捕を教えてくれた友人に同行してもらった。勿論、カメラなどは持って行かない。
その友人の交渉の結果、中に入れてもらえることとなった。中では、数人の学生がテープから流れる言葉を聞いていた。
友人が教えてくれた。
「これはモンタゼリの教えです」
モンタゼリ師。それは1979年のイスラム革命を主導したホメイニ師と同格、否、ホメイニ師以上に崇められたイスラム聖職者の名前だ。しかし彼は姿を消す。幽閉されるのだ。政教分離を訴えたからだ。
「ミスタータテイワ、ここはかなり危険だ」
友人の表情が険しくなったのでその場を離れた。
それから暫くして、アリが一枚の封書を持ってきた。
「ボス、こんなものが届きました」
ペルシャ語で書かれているので意味がわからない。目を通したアリが言った。
「モンタゼリ師からの招待状です」
モンタゼリ師は古都として知られるコムの自宅で幽閉されている。テヘランから車で行けない距離ではない。そもそもその招待状に日付などが書いてあったのかも今は覚えていない。
翌日、コムへ行くことにして、運転手のハッサンに準備するよう伝えた。
アリは来ず、身柄を拘束される
そして翌日。いつまで待ってもアリは姿を見せない。
「アリさん、来ませんね」
ハッサンが心配そうに口にした。気にしても仕方ないので、アリを待たずに出ることにした。
記憶ではテヘランから2時間ほど車を走らせた場所だったと思う。途中から1台のイランの国産車が後方についているのに気が付いた。
「ハッサン、あの車、我々の後をつけているんじゃないか?」
ハッサンは表情を強張らせたが、何も言わなかった。この段階で引き返す手もあったかもしれないが、それでも同じだったかもしれない。
ガチガチに固まったハッサンの運転する我々の車は予定通りモンタゼリ師の自宅の前に停まろうとして、その手前で数人の男性に止められた。そして後ろから追ってきた車も止まった。囲まれた形だ。
男性がハッサンを車から降ろしてなにやら伝えている。ハッサンが私のところに来て、それを伝える。
「パスポートを渡せと言っています」
私はパスポートと情報省が発行してくれた記者証を渡した。
「一緒についてくるようにと言っています」
面白い、と思った。さて、どうなるのか。私はハッサンの車で彼らについて行った。それはコムの市内にある建物だった。そしてハッサンと二人で、ある部屋に入れられた。別に牢屋ではない。応接室だ。時間は正午前後だったと記憶している。
ところが、待てど暮らせど、その後、誰も来ない。1時間経ち、2時間経ち、3時間経っても、誰も来ない。
実はその日は木曜日だった。金曜日が安息日となっているイスラム教国のイランでは、木曜とは金曜日か土曜日といった感覚だ。つまり、その日の夕方になっても誰も来ないということは、週明けまでそこにいさせられるということだ。
「困ったな、ハッサン、あさってまでこの部屋で過ごすのかなぁ?」
ハッサンはさすがに話す気力もないようで、うなだれている。仕方ない。取り敢えず誰かに尋ねてみよう。そう思ってドアノブに手をかけると、簡単にドアが開いた。するとその前に係官が座っていた。ハッサンを呼んで、「まだいなければならないのでしょうか?」と尋ねてもらうと、あっさり、「帰っていい」と言われた。
「パスポートは?」
「後日、指定された場所に取りに行くように」
我々はまた数時間かけてテヘランに戻った。
72時間以内の国外退去
テヘランに戻ると、すぐに日本大使館の参事官から連絡が入った。大使に次ぐ政務担当の責任者だ。
「日本人の記者が国外退去になったという話が各国の大使館で広まっています。大丈夫ですか?」
「そうですか、国外退去ですかぁ……まだそういうことは言われていませんけど、そういうことであれば、国外退去なんでしょうね」
その後、大使とも話した。大使の見立てでは、保守派の司法省が目立った記者をターゲットにして国外退去にして、それを見せしめにしようとしているというものだった。
「立岩さん、名誉なことですよ」
NHKがそう考えていないことは東京からの国際部長の電話でわかっていたが、大使にそう言われると悪い気はしない。勿論、悪いことをやったわけではない。因みに国際部長に電話口で怒鳴られた際に言われたのは、「お前は、これまでNHKの先輩方が築き上げてきたものを一人で壊してくれた」だった。
その後、司法省から連絡が来たとアリが言ってきた。アリはもう私とは目を合わさなかった。そうだろう。もう直ぐこの危険な奴はボスではなくなるのだから。私は、モンタゼリ師からの手紙がおとりだったことをアリは知っていたはずだと今も思っている。
指定された警察署に行くとパスポートを返された。その際、「72時間以内に国外退去」と書かれた印を押された。
Mからの電話
その際もアリは何も言わず、私も彼に何も言わなかった。私には身支度という身支度もなかった。いつでも出国できるように準備していたし、何よりも、持ち帰るような荷物は持っていなかった。
実は車を自費で購入していたが、それはそのまま支局に置いておくことにした。日本円で90万円ほどで購入した日産の中古の4輪駆動車で、イランでは「パトロール」という名称で売られていた。そこにペルシャ語で「日本のテレビ局 NHK」と大きく書いていた。どうせ、監視されているのだからわかりやすくて良いだろうと思ってのことだった。
突然Mから電話があったのは出国の前の日だった。支局に行っても良いかという電話だった。
「所長から聞いていると思うのですが、私は国外退去処分となりました。今、あなたがここに来れば、あなたは大変なことになります」
Mは私の国外退去を知らなかったようだ。しばし絶句していた。そして言った。
「婚約を解消しました」
今度は私が言葉を失った……が、ここで私にできることは何もせずにイランを出ることだけだ。彼女に会ったところでお互いに展望はない。
「私はもうイランに来ることはできないでしょう。残念ですが、もうあなたに会うことはできません」
そう言うと、彼女は、「わかりました」と言って電話を切った。実はその後、彼女はJETRO視察団の1人として日本に来ている。その時にJETROの所長経由で連絡をもらったが、私は彼女に会いに行かなかった。
その訪問団がイランに戻った後に日本大使館で報告会が開かれている。経済産業省から派遣されていた一等書記官が報告会の後の立食パーティーで、「日本はどうでしたか?」と彼女に尋ねた際、彼女は次の様に話したという。
「日本は想像を絶するほど進んだ国でしたが、想像を絶するほど冷たい国でした」
出国から搭乗までの空白の時間
それはさておき、出国間際の話を続けよう。残念ながら私には感傷に浸っている時間はなかった。はたして私が無事に出国できるかという議論が日本大使館で行われた。頻繁に防衛駐在官と連絡をとりあった。この陸上自衛隊一佐とは気心が通じて、普段から親しくしていた。その一佐が急遽、出発のその日の朝に大使館で話がしたいというので大使館に向かった。
部屋に入ると、いつもは冗談ばかり言っているその一佐が厳しい表情で言った。
「空港までは私が同行します。ただ、問題があります」
「問題とは?」
「出国カウンターまでは同行できるようになりましたが、その先は認めないということです」
「出国カウンターまでついてきていただければ十分かと思います。ありがとうございます」
私がそう言って謝辞を重ねたが、一佐は、「立岩さん、わかっていませんね」と強い口調で言った。
「出国してから飛行機に乗るまでは、あなたはイランにいないことになるんです。既に出国していますから」
つまり、こういうことだ。出国カウンターを出てしまえば、私は既にイランを出国したという記録しか残らない。その後に飛行機に乗るまでに何があっても、イラン政府になんの責任もないことになる。
「その間に逮捕されてどこかの収容所に入れられても、我々は何もできないんです」
まさかぁ……とは言えない。当時、イラン人女性と結婚してイランに住んでいた日本人男性が収容所にいれられていた。その事実を日本大使館が把握したのは、かなり日数が経ってからだった。まさに、大統領が誰になろうが、司法省は変わらないということだ。愕然としたが、仕方ない。覚悟を決めると同時に、できるだけ荷物を減らして身軽な恰好で空港に向かった。
そしてテヘランのイマーム・ホメイニ国際空港に着いた。自衛官服姿の一佐が隣を歩く。運転手のハッサンとは短い別れをして直ぐに帰らせた。他の支局員とは既に前日に別れの挨拶はしている。アリとは、最後までお互いに目を合わせなかった。彼はその後、支局を解雇される。彼にとっては極めて高額な報酬だっただけに、愚かなことをしたものだとは思う。
出国カウンターに着いた。ここで駐在武官とはお別れだ。
「立岩さん、ここまでです。ご無事で」
「ありがとうございます。このご恩は忘れません」
そう言って出国カウンターに向かおうとした時、制服姿のヨーロッパ系の男性が近づいてきた。その男性は私が搭乗する英国航空のチーフパーサーだった。
「英国航空の者です。ここから先は私が同行します」
「え?」
駐在武官は、直ぐに状況を理解したと見えて、「お願いします」と英語で伝えた。その経緯は今もわからないが、私の状況を知っている航空会社が動いてくれたということだろうと思う。
少なくとも、英国航空の職員が同行していれば、その場で拉致して収容所に入れるということは、さすがに西側嫌いな司法省もできないだろう。それに、イランは伝統的にヨーロッパとは問題を起こさないように努めている。実は、イランを出国する上でいくつかの航空会社に状況を説明して打診していた。「何の問題もありません」と準備をしてくれたのが英国航空だった。
そしてタラップを上って機内に入ると、私にはなんとファーストクラスの席が用意されていた。
「これは何かの間違いではないでしょうか?」
そう同行してくれたチーフパーサーに尋ねると、「いえ、これがあなたにふさわしい席です」と言った。そして周囲のCAにこう伝えた。
「彼が必要とするものは何でも用意してあげてください」
そして、ドアが閉められた。飛行機はゆっくりと動き出した。私はもう窓の外を見る体力もなかった。思えば、コムで身柄を拘束されて以降、満足に眠ることもできなかった。何も思い出せなかった。飛行機が水平飛行になる前には深い眠りについていた。
飛行機はキプロスを経由してロンドンのヒースロー空港に着いた。そこでひと悶着あったのは入国審査だ。私は常に空港でトラブルになる性分なのだが、この時はパスポートに国外退去と押されているので仕方がない。ただ、ここは説明をして入国が認められた。
今思い返しても、イランでの日々は私にとって激動だった。ただ、イランは私にひとつのことを教えてくれた。それは、外から見て独裁的な国であっても、けしてそれは一枚岩ではなく、様々な勢力がしのぎを削っているということだ。
故安倍総理が2019年6月にイランを訪問している。私は基本的に安倍総理の外交政策を厳しく見ているが、この判断は評価できる。イランの中に、そうした日本の取り組みを評価する勢力は必ずいる。そして、それは日本だけでなく、世界にとって良いものをもたらすはずだ。当然、イランにとっても。
トランプ前大統領に代表されるアメリカに根強い対イラン強硬策は西側との対話を進めようとする勢力を窮地に立たせる。そしてそれはイランの保守派にとって極めて都合が良い。保守派にとってアメリカが敵でいてくれることが求心力を維持するために必要だからだ。思えば、私のイランでの日々はハタミ大統領と保守派とのせめぎ合いだった。それは今のイランでも変わらないだろう。
ひとつ加えておきたい。Mのことだ。数年前、NHKに英文の手紙が届いた。Mからだった。手紙によると、彼女はその後、亡命したのだという。今はカナダにいるということだった。病院で働いていると書いてあった。両親と妹はイランに残しているという。だからここでも実名を出すことはできない。
Mの幸せと、イランで出会った多くの人々の幸せを願わずにはいられない。