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【新田義貴のウクライナ取材報告⑩】キーウ攻防戦の爪痕

【新田義貴のウクライナ取材報告⑩】キーウ攻防戦の爪痕

ロシア軍の侵攻直ぐにウクライナ入りした新田義貴。一度ポーランドに出るも、キーウ全州をウクライナ軍が奪還したと聞いて再びウクライナに入った。そこで見たものは掘り起こされた多くの遺体だった。(取材/写真:新田義貴)

4月2日、ウクライナでの約3週間におよぶ取材をひとまず終えた僕らは隣国ポーランドの首都ワルシャワまで戻り帰国の途につこうとしていた。まさにその時である。

「ウクライナ軍がキーウ州全域をロシア軍から奪還した」。

予想外のニュースが突如飛び込んできた。奪還した・・・つまり解放されたのはキーウ郊外のイルピン、ブチャ、ボストメルの3つの町だという。いずれも1ヶ月近くにわたりロシア軍の占領下にあった場所だ。しばらくすると、ブチャの路上に住民とみられる遺体が散乱していることや、両手を縛られた状態で亡くなっている人もいるなど悲惨な状況がBBCなどのリポートで報じられ始めた。

すでに気持ちは帰国モードに切り替わっていてようやく緊張から解き放たれていたのだが、自分の中でもういちどスイッチが入った。体力は限界に近づいていたが、この状況を自分の目で見て取材せずに帰るわけにはいかないという強い気持ちが沸いてきたのだ。

とにかく一刻も早くキーウまでたどり着く方法を探ることにした。キーウ直行の列車があると聞き鉄道の駅を訪れたが、切符は3日後まで全て売り切れだという。キーウ郊外が解放されたことを受け、すでに避難民の帰還の動きが始まっていたのだ。仕方なく夜行バスをインターネットで予約した。ずっと同行していた先輩ジャーナリストの遠藤正雄さんは体調を崩していた。この危険な地での取材は遠藤さんのサポート無しには困難だった。しかし遠藤さんの体力の消耗も激しいことがわかった。このため、無理はせずにワルシャワに残ってもらい取材を後方からサポートして頂くことにした。

キーウに向かう長距離バスの車内

 5日の午後にワルシャワ中央バスターミナルからキーウに向かう夜行バスに乗り込んだ。乗客のほとんどが、祖国に帰還するウクライナの人々だった。帰還民と乗り合わせての長旅となった。乗車してすぐに車掌が切符の確認にやってきた。途中リヴィウでバスを乗り換えるため、客それぞれ行き先が違うのだ。その時、後方の席で乗客たちの笑い声が起きた。ウクライナ語がわからない僕は隣の席にいた英語を話せる女性に笑い声の理由を聞いた。女性はリマと自己紹介してくれた。リマによると、車掌が小さな子どもを連れたお母さんに「どこへ行きますか?」と尋ねたところ、横にいた男の子が、「おうちに帰るの」と答えたという。それを聞いた乗客たちに笑いが沸き起こったのだという。

そしてリマはこう付け加えた。

「でも私たちもみんな同じ気持ちなのよ」

戦争はまだ終わっていないのだが、バスの車内にはようやく故郷に帰れる人々の希望が満ちあふれていた。

 バスがキーウに到着したのは翌日の夕刻。出発してから28時間が経過していた。バスターミナルに通訳のイヴァンが迎えに来てくれていた。つい先日、「また生きて会おう」と抱き合って別れたばかりの僕がまたすぐに舞い戻ってきたので、「お前は本当にクレイジーなやつだ」と嬉しそうに笑った。

 翌朝、さっそくイヴァンの車で解放されたばかりのキーウ郊外の町ブチャに向かった。本来、イヴァンの自宅からブチャまでは車で20分ほどで着く距離だということだが、この日は町の入り口に検問の長い列ができていた。まだ解放されたばかりのこの地域は日によって軍が入域を許可したり制限したりを繰り返していた。この日はイルピンでは地雷除去のため入域が制限されていたがブチャは入れるということだった。

検問を待っている間、イヴァンが興味深い話をしてくれた。ブチャやイルピンなど郊外の町は、キーウで働く人々のベッドタウンなのだという。キーウ市内より広々として自然も豊かなため、弁護士や医者などの知識階級に人気な閑静な住宅街なのだ。イヴァン自身、家族3人で暮らすキーウのアパートが手狭になってきたため、ブチャに引っ越したいと思い一所懸命お金を貯めている最中だったのだそうだ。残念ながら引っ越し資金がまだ貯まっていなかったがゆえに、皮肉にもロシア軍の侵攻を免れることができたというわけだ。

 ブチャの町中に入ると、住宅街の路上に破壊されたロシア軍の装甲車両が至る所に打ち捨てられていた。今回の戦争ではロッキードマーティン社製のジャベリンと呼ばれる歩兵携帯式ミサイルが米国から大量にウクライナに供与されていて、ロシアの装甲車両に対して多大な戦果を上げていると伝えられていた。現場で見たその破壊のすさまじさからは、それがどうやら真実であることが窺い知れた。

破壊されたロシア軍の戦車の前に立つ新田義貴氏

 僕らは町の中心部にある教会に向かった。海外メディアのニュースでこの教会に住民の遺体が多数埋められたという報道を目にしていたからだ。ちょうど僕らが訪れると警察による遺体の掘り起こし作業が進められていた。教会の庭に大きな穴が開いていて、その土の中から次々と遺体が掘り起こされていく。掘り起こされた遺体は「戦争犯罪調査官」と背中に書かれたジャケットを着たスタッフによって写真を撮られた後、黒いボディバッグに入れられていく。すでに15体ほどの遺体が並べられていた。規制線の外側には遺族や住民が不安そうに作業を見つめている。

次々に掘り返される遺体

ひとりの女性に話を聞いた。3週間前に「近所の友人の様子を見てくる」と言って家を出て行った息子が消息を絶ったままだという。ここに来れば何か手がかりが得られるかも知れないと思い藁をもすがる思いでやってきたと涙ながらに語った。教会の司祭によれば、町中にあまりに多くの遺体が散乱していたため、ロシア軍と交渉して教会の敷地に埋葬したという。その数は100体を超えたという。多くが教会の信者で普段から顔見知りだったと悲しげに語った。

息子を探しに来た母親

 ロシア軍占領下のブチャなどキーウ郊外の町では、ロシア兵による虐殺、レイプ、拷問、誘拐など多くの戦争犯罪が行われた可能性が指摘されている。ウクライナ政府による調査が続きジャーナリストも証言を拾い集めているが、あまりに規模が大きすぎて全体像を明らかにすることは極めて困難だ。人々の話を聞く限りロシア軍の規律は崩壊していたとしか思えない。憎悪と恐怖を擦り込まれた若い兵士たちにとって、その行動を抑制するものなどないに等しかったのではないか。そしてそれこそが戦争というものの実相なのかもしれない。ロシア側はこれらをウクライナ側の自作自演だとしているが、これだけの規模の蛮行が自作自演だというのは状況証拠からしてもあり得ないだろう。いずれにしても、真実を少しでも明らかにするために、ひとりでも多くのジャーナリストが現場で取材を続ける必要がある。

 今回の戦争の最初の段階ともいえるキーウ攻防戦は、ウクライナ側がキーウ州全域を奪還しロシア軍を撤退に追い込むという結果に終わった。その背景にはもちろん2014年から続いてきたウクライナ軍の装備の近代化と、欧米諸国による軍事支援が大きく影響していることはもちろんだ。しかし一方で、僕がキーウ市内で取材した銃後の市民たちの団結と士気の高さもまた大きな力になったことは間違いない。多くの専門家が数日で陥落すると予想した首都キーウは市民たちの強い意志の力で守られたのだと感じる。一方でその代償は川向こうの郊外の町での残虐な殺戮として歴史に刻まれた。そのことを決して忘れてはならない。

最初にウクライナ入りした時の新田義貴氏

 キーウ侵攻を諦めたロシア軍は戦略を修正し、東部ドンバス地方と南部の攻略に部隊を集中させて今も連日激しい戦闘が続いている。このドンバスこそプーチン大統領が今回の戦争を始めるにあたって、「キーウの政権によって虐待や虐殺に晒されてきたロシア系住民を守るため」と言及した地域である。そして戦争はまだ終わっていない。あと数年は続くかもしれないと長期化を懸念する予測すら出始めている。今回のキーウを中心とした取材ではこの戦争の全貌は見えてこない。やはり親ロシア派住民が暮らすドンバスでこれまでいったい何か起きてきて、いま何が起きているのか、このことを取材しなければならないと強く感じる。戦争が終わっていない以上は、僕も今はいったん帰国しているという状態であり、これからも取材を続けていかねばならないと感じている。そして一刻も早くこの戦争が終結することを願っている。     

(おわり)

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