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【新田義貴のウクライナ取材報告⑨】戦争は「マイダン革命」から始まっていた

【新田義貴のウクライナ取材報告⑨】戦争は「マイダン革命」から始まっていた

ロシア軍のウクライナ侵攻はいつ始まったのか。戦車がなだれ込んだ2022年2月24日なのか?それともクリミア併合に着手した2014年なのか。違う。それ以前から始まっていたとイヴァンは語った。(取材/写真:新田義貴)

この取材で通訳をしてくれるイヴァン。彼の口癖がある。

「この戦争は2月24日に突然始まったんじゃない。2014年からずっと続いてるんだ。」

キーウの中心部に「独立広場」と呼ばれる場所がある。古くからキーウを代表する広場として長い歴史を刻んできたが、1991年にウクライナがソ連から独立を果たすと現在の名称に改称されウクライナ民族運動を象徴する場所となった。広場の中心には高さ52メートルの円柱の上に天使の像を掲げる独立記念碑がそびえ立つ。

「独立広場」に立つイヴァン

2013年11月から14年2月にかけて、この広場で「マイダン革命」と呼ばれる騒乱事件が起こった。独立後、ウクライナは経済的に混迷を続けていた。その中で、ヨーロッパの一員として豊かになりたいという国民の意思に反し親ロ的な政策を続けるヤヌコービッチ大統領に対して怒りの声をあげた。反政府デモである。

厳寒のウクライナの冬、多くの市民がこの広場に集いたき火を囲んで政府への抗議の声を上げ続けた。イヴァンもまたこの広場で連日デモに参加したひとりだ。その結果、ヤヌコービッチ大統領は失脚しモスクワに亡命、新たな政権の誕生につながった。しかし一方でその代償も大きかった。

広場の片隅にある慰霊碑にイヴァンが案内してくれた。デモの犠牲者の顔写真がずらりと並び、国旗や花、ろうそくが捧げられてある。見たところほとんどが若者だ。この革命では市民100人が死亡。ほとんどがデモを鎮圧しようとした警察の発砲による犠牲者だ。やがてこのマイダン革命は別名「尊厳の革命」と呼ばれるようになり、通りの名前も「100人の英雄」通りと改名された。

マイダン革命で犠牲になった人々

イヴァンは言う。

「僕たちは自由と豊かさを求めて無我夢中で闘った。そして仲間の命を代償に未来への希望を得た。その後の発展は彼らの血であがなったものだ。だからロシアがどんな卑劣な手段で襲ってきても決してそれを手放すわけにはいかない」

一方でマイダン革命はプーチン大統領の逆鱗に触れ、2014年のロシアによるクリミア半島の併合、東部ドンバス地方の親ロシア派武装勢力による紛争など現在に至る危機につながっていった。

この紛争に長く参加してきた外国人義勇兵がいると聞き、3月下旬に面会することになった。キーウ郊外の公園で待っていたのはベラルーシ出身のサーシャ(仮名)、28歳。ご存じの通り、今回の戦争でベラルーシのルカシェンコ大統領は一貫してプーチン大統領と歩調を合わせており、外から見ているとベラルーシの国民の声はほとんど聞こえてこない。

ベラルーシからウクライナ義勇兵となったサーシャ(仮名)

サーシャは2014年にロシアがクリミアを併合するとすぐにウクライナに入国しウクライナ軍に義勇兵として志願。長年東部ドンバス地方で親ロシア派武装勢力と戦ってきたという。

「隣国のウクライナの人々が苦しんでいるのを黙って見ていることはできなかったのです。ウクライナを救うことは、いずれ自分の国の人々も救うことになると考えました」

サーシャの話ではベラルーシの国民の半分以上は本当はウクライナの人々に共感しているのだという。しかし現在は自由にものを言える状態ではないのが現状だともいう。サーシャは今回の戦争ではキーウ防衛の部隊に配属され指揮官として最前線で戦っていた。この日は非番で軍の宿営からわざわざ来てくれたという。別れ際にサーシャの手の甲に彫られている真っ赤なタトゥーについて聞いてみた。観た人にネオナチであるかのような誤解を与えてはまずいので、もし意味があるのであれば知りたいと思ったからだ。

「これはベラルーシの中世の騎士団の紋章です。僕たちにとっては正義の印です。」

3月下旬、僕らは予定していた取材日程を終え、イヴァンの車で再びリヴィウに戻った。イヴァンはここで久々に奥さんと子供と再会した。そこには戦争の最前線から離れて、ひとときの平和な時間を楽しむ幸せな家族の姿があった。イヴァンは遠い目をして言った。

妻と子供と再会したイヴァン

「戦争があって初めて、何気ない日常の幸せが身にしみた。妻や子供とキーウの小さなアパートで喧嘩しながら毎日を必死に生きていたあの日々は今となっては遠い思い出だ。でも必ずまた僕たちはあの自由な生活を取り戻すよ」

(つづく)

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