1944年10月10日、アメリカ軍は那覇市を空爆し、市の90%が壊滅した。「10・10空襲」と呼ばれる。沖縄戦の被害を訴えた裁判の資料から読み解くシリーズの18回目は、前回に続き「10・10空襲」を取り上げる。(文・写真/文箭祥人)
1944年10月10日、アメリカ軍は那覇市を空爆し、市の90%が壊滅した。それは「10・10空爆」と呼ばれ、前回、それについて書いた。それは県都である那覇市に多くの日本軍の施設があり多くの住民が暮らしていたからだが、実はアメリカ軍はこの日、日本軍の施設がない沖縄の孤島も空襲している。
「神の島」 久高島での空襲
久高島。沖縄南部、周囲8キロの小さな島。
琉球誕生の祖神アマミキヨがこの島に降り立ち琉球の国づくりを始めたとされ、首里から見て太陽が上がる方角に位置していることなどから、琉球の人たちは「神の島」と呼ぶようになった。
原告の運天先記(うんてん せんき)さんは、久高島近くの海で祖父運天先用(うんてん せんよう)さんが亡くなった状況を陳述書に書いている。孫の先記さんが家族らから祖父先用さんの戦争体験を聞き取った。孫が祖父に代わって、被害の実態を訴えたのだ。
先記さんの陳述書は次の一文から始まる。
「私は1945年9月20日、沖縄県北部の国頭村久志にあった収容所で生まれました」
先記さんもまた、沖縄戦と無関係ではなった。身重の母が、弾が飛び交う戦場を逃げ回るなか、アメリア軍に収容所に連れて来られ、そして、先記さんが生まれた。収容所は、臨時で張ったテントや屋根のない急ごしらえの避難小屋などが並ぶ場所に過ぎなかった。
沖縄県史によると、1945年8月25日時点で、およそ33万人の住民が収容所に入っていた。アメリカ軍が設置した収容所は北部に集中していた。それはアメリカ軍の戦略と関係している。
アメリカ軍は日本本土進攻作戦のため、比較的平坦な中南部を基地化する計画を立てていた。そのため、住民を北部に移動させたのだ。収容所において、アメリカ軍の本来の目的は、住民保護ではなく、あくまで沖縄を統治することにあったと考えられる。こうしたアメリカ軍の戦略により母が北部に連れて来られ、先記さんが生まれた。
先記さんの陳述書に戻る。
祖父の先用さんは当時50歳。南部の知念村に暮らし、農業と漁業で生計を立てていた。
沖縄戦が始まると状況が一変する。漁から帰ってくると、日本兵がやってきて、その日の水揚げの一部を強制的に取り立てられた。また、畑で作った芋などを日本軍に提供するよう求められた。
1944年10月10日の朝、友人二人とともに、沖縄の伝統的な小型漁船サバニでイカ釣り漁に行く。そして、その帰り、久高島近くを通る。
久高島には日本軍の施設はなく、兵士は一人もいなかった。島民たちは軍隊もこない、「(アメリカ軍の)弾もこない」と安心して暮らしていたという。
ところが、先用さんらが乗っていたサバニがアメリカ軍に攻撃される。陳述書に次のように書かれている。
「祖父らが乗るサバニがアメリカ軍に見つかり、機銃による攻撃を受けました。その攻撃で祖父は後頭部からのどにかけて、弾が貫通して即死しました」
祖父の体を貫通した弾は船底に穴を開け、サバニは浸水した。
サバニに残った友人二人が、祖父の遺体を乗せたまま島影に舟を動かして隠れ、アメリカ軍の戦闘機が飛び去るのを確認して、部落に戻った。
「棺がなく、タンスの引き出しを使って、そのまま墓に入れたそうです」
先記さんは陳述書で次のように訴える。
「戦争がなければ、祖父はあの年齢で亡くなることはなかったはずです」
祖父の遺族は国からの補償を一切受けていない。
「国が自分で起こした戦争の責任を取ることは当然のことだと思います」
10・10空襲について、久高島の国民学校校長の証言が沖縄県史に記載されている。
「4、5機のアメリカ軍戦闘機グラマンが学校を狙って機銃掃射をやってきました。弾がプスンプスンと飛んできました。それから自然洞窟に逃げようとした、その途中、機銃掃射にやられました。その後もグラマンは何度も繰り返しやってきました」
さらに島の被害は続く。
10・10空襲から4か月後、全島民に対して立ち退き命令が下り、無人島となった。そこにアメリカ軍は爆撃を繰り返し、さらに水上戦車隊が上陸して、家屋に放火し、石垣を突き崩し、畑を敷きならした。変わり果てた島の姿を住民が見るのは、疎開先から戻って来てからであった。
カツオの池間島でも空襲
池間島。宮古島から北に1キロ離れた、周囲9キロの小さな島。
かつて「カツオの池間島」と呼ばれた。明治末期に始まったカツオ漁は沖縄の他市町村を圧倒するまでに成長し、地元の経済振興において重要な産業となった。周辺海域にとどまらず、サイパンやパラオなど南洋にも出港した。戦争の一時期、漁は中断されたが、戦後再開した。戦前から1960年代まで地域の産業の中心はカツオ漁業であった。
この島に日本軍の軍隊は常駐していなかった。宮古群島で唯一設置されたこの島の灯台をアメリカ軍は空襲の目標とした。灯台は文字通り蜂の巣の様な状態となった。灯台をはずれた弾が周辺を襲った。
池間島を襲った10・10空襲の被害者の一人が原告仲間弘さんだ。その体験が陳述書に書かれている。わずかB5一枚の短い文章。それは本人が書いたのではなく、弁護士が聞き取りをして文章化したものだ。
「壕の近くに爆弾が落ちた。その爆弾の破片が父と原告仲間弘さんを直撃した」
アメリカ軍が落とした爆弾の破片が、父の左の腹部から右のおしりあたりに刺さり、仲間弘さんの左の頭部と右の胸に刺さったという。
1944年10月10日午前10時ごろだった。当時12歳の仲間弘さんは父と弟と一緒に、自宅近くの自然壕に避難している。けがをした父は思うように動けなくなった。そのため、生業である漁師ができなくなったという。
戦争は終わったが、大黒柱の父は働くことが出来ず、収入が減り、入院費用が捻出できない事態に陥った。
年を重ねるにつれ、破片で負傷した父の腹部が膨張する。そして、戦後16年が経ち、このけががもとで父は亡くなった。
12歳のとき、爆弾の破片が左の頭部に刺さった仲間弘さんは戦後、どう過ごしたのだろうか。
この頭のけがが原因で、知的能力に障害が残った。仕事ができなくなったのだ。
戦後67年の2012年、仲間弘さんは診察を受ける。その結果、頭部に数ミリ大の異物があることがわかった。爆弾の破片が左の頭に残ったままだ。
仲間弘さんは原告になったとき、外に出ることが困難になり動けない状態になっていたという。自分の手で陳述書を書くことはむずかしくなっていた。
弁護士が書いたB5一枚の陳述書は沖縄戦の実態を雄弁に語ってくれている。