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【司法が認めた沖縄戦の実態⑮】繰り返される日本兵の「出ていけ」

【司法が認めた沖縄戦の実態⑮】繰り返される日本兵の「出ていけ」

「出ていけ」。沖縄戦の住民の言葉に当然の様に出てくるのがこの日本兵の言葉だ。日本軍は自宅を失って壕などに隠れている住民を守るどころか、「出ていけ」の一言で追い出した。最高裁が認めた住民の陳述書から見えてくるのは、その日本軍の言葉が沖縄戦での住民の被害を大きくした事実だ。(文箭祥人)

1945年5月末、当時3歳と6か月だった山岡芳子さんは家族と一緒に沖縄県南部の与座岳近くの自然壕で命をつないでいた。この頃、南部への撤退を決めた日本軍司令部は与座岳周辺に戦力を集結させ、一方アメリカ軍は南へ進軍し、日米の攻防戦が始まろうとしていた。

繰り返される日本軍の命令

沖縄戦が始まる前、山岡さんは両親と7歳と4歳の二人の兄・1歳になる妹・父方の祖父祖母の7人と首里に暮らしていた。父は地元で有名な菓子屋を経営、裕福だったという。戦争が近づくと自宅の隣に日本軍が陣地を構え、両親は日本軍に菓子や食糧を運ぶようになり、兵士らと親しげに話す両親を山岡さんは誇らしく思っていた。

1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。28日、山岡さん家族は首里からおよそ3キロ南に下った那覇市識名に避難し、広い墓の中での生活が始まる。このときの様子を山岡さんは陳述書に書いている。

「まわりには住民が多くいて、近くには日本軍の陣地がありました。海いっぱいにアメリカ軍の軍艦が埋め尽くしていました。軍艦から艦砲射撃は激しくなり、夜になると照明弾が上がり、ますます戦争は激しくなってきました」。

このころ首里の山岡さんの家は艦砲射撃を受け吹き飛ばされる。

墓での避難生活が始まっておよそ1か月後の5月24日の夜明け、日本軍が現れ次の様に命令した。

「ここは軍が使う。南部へ出ていけ」。

この連載で何人もの原告が語る日本軍による壕追い出しだ。

山岡さん家族はやむなく南部へ向かう。昼は岩穴に隠れ夜通し歩き、識名からおよそ南へ10キロ離れた南部の与座岳近くの自然壕にたどり着く。

与座岳周辺に移動したのは住民だけではない。日本軍は兵士を集結させる。

6月1日、山岡さん家族の壕に日本軍が現れ命令を下す。

「軍の手伝いをしろ」。

両親と祖父は、日中は弾薬の運搬や炊事、雑役などをさせられるようになる。ただ、夜は家族と一緒に壕に避難していた。

一方、アメリカ軍は6月8、9日に与座岳の麓に到着し、猛烈な空爆、砲弾、艦砲射撃などを浴びせる。これに対して日本軍は道を地雷で封鎖し、機関銃などで抵抗。連日激戦が続く。

6月11日朝、両親と祖父は戦闘が続く現場へ向かうため壕を出る。昼になって日本軍が壕に現れて三度命令する。

「壕から出て行け」。

2回目の壕追い出し命令だ。山岡さんは陳述書でこう書いている。

「私たちは爆弾が飛び交う中を逃げに逃げました」。

壕を追い出されたのは山岡さんと7歳と4歳の二人の兄・1歳の妹・祖母。

母の声はやがて消えていった

翌日、移動中に弾が襲う。日本軍の手伝いから戻って一緒に避難していた母は、左手に1歳の妹を抱き右手で4歳の兄を抱いていた。そこを爆弾が襲う。

「兄と妹が即死しました。母は二人が盾になったのか即死はしないで、右のももから下肢が千切れて飛散りました。母は大声で『あーがよー、あーがよー(痛いよー、痛いよー)』と悲鳴をあげていました」。

その声は次第に小さくなりやがて消えていったという。

生き残った山岡さんと兄、祖母は三人の遺体を岩の近くに埋葬した。母が肌身離さず持っていた裁縫箱が形見となった。同じ日、弾薬の運搬などをさせられていた祖父と父は艦砲射撃を受け、即死した。山岡さんは右頬と額、目をやられ、目がよく見えなくなり、やけども負った。

糸満市史に与座岳をめぐる日米両軍の攻防を記述するアメリカ軍戦史が掲載されている。

「与座部落に入るや与座岳から流れるように日本軍の弾丸が飛んできた。夜に入ると銃火はますます激しくなり、米軍は撤去せざるを得なかった。3日間というもの与座部落から日本軍を駆逐しようとした。そのたびに米軍は頂上からの機銃射撃のため夜になると退去した。そして毎晩日本軍は部落を占領した」。

また、変貌した与座岳の姿を、次のように証言する多くの住民がいると記されている。

「与座岳は、木々が焼かれ岩が砕かれて、緑なる山が一面真っ白くなり、採石場のようになっていた」。

激戦の結果、多くの住民、日米兵士の遺体が横たわる。

生き残った山岡さん・兄・祖母の三人はさらに南部へ逃げる。

「道には死体が物のように、ごろごろと転がっていました。やむを得ず死体を足で踏み越えました。踏んだ感触は今でも足の裏に残っています。思い出すと今でも身震いします」。

その後、アメリカ軍に避難しているところを見つかり捕虜になった。

封印してきた体験談

戦後、山岡さんらは財産もなく身寄りもなく沖縄での生活が困難になり、1952年名古屋に住む親せきを頼りに沖縄を離れることになった。当時、沖縄はアメリカの統治下にあり、パスポートが必要な時代だった。周りからは奇異な目で見られ、つらい思いをたくさんしたという。生き残った兄は1955年病死し、祖母は1964年亡くなった。

山岡さんは戦争の体験を話すことが出来なかったと陳述書に書く。

「ひとたび体験談を口にすれば、止めどなく思いが流れ出て、戦争の光景が思い出され、心が壊れてしまう気がして、心に鍵をかけました」。

毎年8月になると、新聞やテレビはアジア・太平洋戦争に関する記事や番組を多く報じる。山岡さんはこれら報道を避けてきた。

「私は目を閉ざしてきました」。

自分の子どもに屍を踏ませられますか

戦後27年が経った1972年、山岡さんは結婚して静岡県長泉町に暮らし始まる。そして長女が生まれる。

「お父さん、お母さんに抱かせてやりたかった。あまりのいとおしさに、閉じ込め続けた父や母への慕情が一気にあふれ出ました」。

命尽きた母が子どもたちを抱きしめていたように、山岡さんはわが子を抱き、夫が戸惑うほど号泣したという。

それから山岡さんは3人の子どもを産み育て、孫が2人でき、30代前半で亡くなった両親の倍以上の年齢をむかえる。

「幸せを感じれば感じるほど、のみ込めぬ思いはもう抑えきれようがありません。封じ込めてきた沖縄戦そして亡くなった両親への思いが頭を持ち上げてきました」。

そして山岡さんは親戚から沖縄戦民間人被害者が国に対して、謝罪と償いと平和を求める裁判が始まると知らされ、亡くなった家族の霊を弔い、無念さをはらすために、遠く離れた静岡から裁判に加わることとなった。山岡さんは71歳になっていた。

山岡さんは裁判で問いたいという。

「戦争は屍を踏んでそれでも生きることです。あなたは屍を踏めますか。自分の子どもに屍を踏ませられますか」。

陳述書の最後でこう訴える。

「スー(お父さん)、アンマァ(お母さん)、戦争は怖かったよ。たまらんかったよ。人間なら戦争なんて絶対やっちゃいけねぇよねぇ」。

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