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【司法が認めた沖縄戦の実態⑲】与那国島の空襲

【司法が認めた沖縄戦の実態⑲】与那国島の空襲

沖縄戦の被害は沖縄本島だけで起きたわけではない。最西端の島、与那国島でも被害は出ている。それは与那国島が日本軍の重要な拠点が置かれたからだ。(文箭祥人)

漁に出るよう命じた日本軍

与那国島。

晴天であれば台湾の山々が見えることもある、日本の最西端の島。

原告、富村初美さんはこの島で生まれ、沖縄戦当時は3歳だった。富村さんの父は漁業と農業で家族を養っていた。1945年6月15日夕刻、家に日本軍がやってきた。そして命じた。

「漁に出ろ」

沖縄県史に与那国の住民の次のような証言が残っている。

「島の部隊は、食糧はすべて供出でまかなっていたようです。いったい、この兵隊たちは何のために島に来たのか。徴用、供出で村民をまくしたてるだけで、何をしたというのだろう」

父は祖父ら5人と漁に出る。日本軍の組織的戦闘が終わるおよそ1週間前のことだ。

与那国は、当時日本領だった台湾や南方地域と石垣島を結ぶ中継地であった。物資を運搬する船舶がこの島を経由した。台湾へ住民を運ぶ疎開船や漁船も寄港した。

アメリカ軍はこの動きをつかんでいて、台湾と与那国の間に戦闘機を頻繁に飛ばして船舶を攻撃した。加えて海に潜む潜水艦がこれら船舶を狙った。一方、日本軍はアメリカ軍の軍艦や戦闘機の発見と報告を任務とする見張所基地をこの島に設置していた。軍事基地ゆえに与那国は海域を含め、アメリカ軍の攻撃のターゲットになっていたのだ。こうした中、日本軍は住民に漁に出るよう命じた。

漁に出た5人はどうなったか、陳述書に次のように書かれている。

「与那国島の沖合で、アメリカ軍の空襲を受け、漁に出た5人全員が亡くなったと祖母に聞きました」

海上での空襲で、遺体は探すことができなかったという。

「父のお墓は母がつくりました。父の遺骨は入っていません」

アメリカ軍の空襲は海上だけではなかった。与那国町史に住民の証言が残っている。

「度々、敵の艦載機や重爆撃機による空襲があり、島民はそれぞれ自然壕や各自の畑に小屋や防空壕などをつくって、避難しました」

富村さんもその一人だった。

「鍋などをもって部落近くの山の中に避難したことは覚えています。戦後、母らにこの話をすると、小さかったのに何で覚えているの、と驚いていました」

富村さんと母にけがはなかったという。

沖縄県史によると、沖縄戦当時の与那国の人口はおよそ4700人。このうち空襲で38人が亡くなった。戦時中から発生していた感染症の一つマラリアは戦後に猛威を振るい、およそ3000人が罹患し、366人が亡くなった。

戦後の生活を支えた母

戦後は、食糧や衣服など物がない時代で、男手があってさえ、生きるのが厳しかった。戦争で夫・父を失った家族は多い。沖縄大百科事典によると、沖縄戦で夫を失った妻は「3万とも4万人ともいわれたが、定かではない」。戦後の家族生活は女性たちにかかっていた。

富村さんが小学校に入学する1948年、母は働くために、那覇へ移動する。

那覇は沖縄戦で壊滅した。冒頭の写真は市内の公園に建てられた「なぐやけの碑」という名の追悼碑。なぐやけは沖縄の古語で、穏やかの意味。

戦後の那覇は穏やかに始まらなかった。1948年頃の旧那覇市はアメリカ軍の物資集積所や兵舎ばかりで、一部を除いて、ほとんどの地域は住民の立ち入りが禁止されていた。多くの女性がアメリア軍の施設の中にある、PXと呼ばれる売店、食堂、コインランドリーなどで働いた。街の市場には、女性が風呂敷を地面に広げ、手に入れたミシンで縫った服を売っていた。また、“戦果”と呼ばれるアメリカ軍施設からかすめ取った物資や香港や台湾などから密貿易で入ってきた商品が並んでいた。これら商品には女性が獲得したものが少なくなかった。

富村さんは当時を振り返る。

「母からお金が送られてくると、お米を食べることができたことを覚えています」

小学校を卒業した富村さんは那覇に行き、那覇の中学校に通うことになる。ただし、母と一緒に暮らすのではなかった。母が家族のために送っていた仕送りが難しくなり、那覇に暮らす叔母がしばらくの間、富村さんを預かることになった。

富村さんは次のように当時の思いを語る。

「母の生活が苦しいことはわかっていたので、さびしいのを我慢していました」

その後、那覇の経済は大きく変わった。民間貿易が開放され、個人が自由に商売ができる基盤が整えられようになった。そしてアメリカ軍基地の本格的な建設・拡充が始まり、基地関係の仕事が増え、アメリカ軍施設周辺のサービス業も発展し、飲食店や料亭の開店がすすんだ。

富村さんが那覇に来てから1年後、母が富村さんに次の言葉をかける。

「部屋を借りたから一緒に住もう」

そして、母と暮らすことになる。母と娘が別々に暮らし始めてからおよそ8年が過ぎていた。

しかし、富村さんは母について、気がかりなことがあった。

「母は私に仕事の話をしたことがありません。私も母がどのような仕事をしていたのか聞いたことはありません。いい仕事ではなく、大変な仕事だったのだと思います」

富村さんは父を失ってからの暮らしを次のように語る。

「父がいないことで、私は小さいころから貧しい生活をしており、家族でどこかに出かけたという記憶もありません」

消えない被害

それから富村さんは、那覇からコザ(現沖縄市)へ。コザの高校を卒業して、東京へ働きに行く。仕事は電器のハンダ付けなど。このころ、日本は高度成長期にあり、東京では東京オリンピック開催が決定し都市の整備が進んでいた。しかし、富村さんは東京の人混みが怖く入っていくことができなくなる。そして、戦時のことを思い出すようになり、パニック障害を起こし、同時に不眠、頭痛が始まる。そして沖縄に戻る。

富村さんは次の症状に苦しんでいるという。

「東京にいた20代から今までずっと、寝たら撃たれるという恐怖があって、眠れない状態が続いています。20代のころまで、子どものころの記憶をずっと忘れていましたが、思い出します」

2015年、これらの症状に関して、精神科医の診断が下る。

「戦争PTSDである。明白に沖縄戦体験と、その後の劣悪な戦後体験によって引き起こされたものだと確認しました」

取り残される民間人被害

街は「復興」したが、一方、民間人の被害に対する補償はいまだ、行われていない。富村さんは陳述書で次のように訴える。

「父が亡くなったことで、私は幼いころからさまざまな苦労をしてきました。これは父が悪かったのではなく、国が起こした戦争によって父が亡くなったのです。その補償は国が行うことは当然のことだと思います」

1965年、富村さんは空襲で亡くなった父の状況を知るために、当時の琉球政府や役場などに聞いて回った。しかし、回答は常に同じだった。

「資料が残っていない。詳しいことは分らない」

被害の実態は今も、明らかになっていない。

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