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【司法が認めた沖縄戦の実態⑧】集団自決を生き抜いた

【司法が認めた沖縄戦の実態⑧】集団自決を生き抜いた

集団自決。沖縄戦を語る際に欠くことのできない悲劇だ。住民を巻き込んだ地上戦で、沖縄の人々が集団自決を選ぶケースが多く報告されている。そこに日本兵の指示は無かったのか。最高裁判所が認めた住民の証言からその状況を読み解く。(取材・文/文箭祥人  写真・画/大城安信 )

沖縄県北部の名護から車とフェリーを使って約2時間で北部の離島、伊江島に到着する。

自転車で半日あれば、一周できるほどの小さな島。175メートルの城山という山がひとつあるだけで、一面に畑が広がる平たんな島。

平坦であるがゆえ、伊江島はアジア太平洋戦争当時、日米両軍にとって航空基地に適した島だと目をつけられた。日本軍は、来るべき米軍との航空決戦にむけ、飛行場建設を計画。一方、米軍は日本本土を攻撃するため、航空機の出撃拠点をつくることが最重要課題。日米どちらが伊江島を制するのか、激しい攻防戦が行われることになった。見落としてはならないのは、島には住民が暮らしていたことだ。その数、およそ4000人。当時7歳、国民学校4年生だった、原告の大城安信さんもその一人だった。

後年、壕を訪れた時の大城安信さん

大城安信さんの体験談が島の平和資料館に掲示されている。島に日本兵が渡ってきた1943年7月からの出来事が綴られている。

「日本軍の田村部隊が飛行場を建設するため、やってきました。各家庭や学校の生徒は石をハンマーで割って、学校に集めました」

「伊江島の人たちは合言葉として、日本軍を友軍と呼び、戦闘に協力するように言い合っていました」

飛行場建設に、住民、生徒ら多数が徴用され、延べ20万人の労働者と合わせて延べ約36万人が投入された。トロッコやローラーの数は限られ、あとは、スコップやくわ、モッコ、馬車などの原始的な器具。炎天下の重労働が1年以上続いた。

「米軍捕虜になれば殺される」

1944年3月、日本軍の別の部隊が島に配備された。大城さんが通っていた赤瓦の校舎は日本軍に接収された。強い太陽の光が注ぎ、突然の雨が降る、青空教室となった。生徒たちは何を学んでいたのか、体験談に次のように書かれている。

「アメリカ兵は悪質で野蛮人だから捕虜になったら、男は鉄砲で撃たれて銃剣で刺殺されて、女は乱暴されて鉄砲で撃ち殺されると教えられました」

10月10日、「十十空襲」と呼ばれる米軍の大空襲が沖縄各地であった。伊江島の住民にとって最初の空襲。大城さんは家から防空壕に走り逃げる途中、米軍機に襲われる。

「右耳のかたわらから機関銃の弾がビュンビュンと通り抜けました」

2回目の空襲は次の年、1945年1月22日。爆弾と機銃掃射が降り注ぎ、大城さんの家は燃え尽くした。家からは何一つ持ち出すことが出来なかった。この日から大城さんは父と母と壕での生活を余儀なくされた。15歳の兄と13歳の姉は日本軍陣地で生活することになった。

大城さんが見た、このころの日本軍の様子が体験談に綴られている。

「日本軍は米軍に爆弾や機銃掃射の弾を使わせるため、竹で作った模型戦車を置いて、ガジュマルの木の枝を刺して、偽装しました」

「アメリカの飛行機が長い線のような真っ白い雲を引いて、飛んでいました。兵隊さんは、毒ガスだと言って、防毒マスクをかけて、民間人に避難するように呼びかけました」

3月、3本の滑走路が完成した。それぞれ長さ1500メートル、幅50メートル。当時、東洋一と呼ばれた。およそ1年7か月かけて、ようやく完成した。しかし、米軍の伊江島上陸が予想され、日本軍が航空戦から地上持久戦に戦略を方向転換し、伊江島飛行場破壊命令が下った。軍民の手で爆破した。

このころの大城さんの体験談には「空襲と艦砲射撃で島の大半が焼けた」とあり、さらに、戦闘の激化が記されている。

「ある夜、弾の音が静かになり、森に人々が集まりました。海を見ると、見渡す限りの軍艦が並んでいました。友軍の神風特攻隊が3機飛んできました。一機は空高いところから落ちるように軍艦に突っ込み、他の一機は軍艦の上をすれすれに横から突っ込みました」

米軍軍艦を目の当たりにした島の住民たちの間で交わされた会話を大城さんは耳にした。それは大城さんが学校で学んだことと同じだった。

「米軍に捕まったら、男は鉄砲で撃たれた後、銃剣で刺され、女性は暴行されて刺殺され、捕虜はスパイとして日本兵に殺されるという話がありました」

4月に入り、大城さんは両親と新しい壕をつくったが、近くに爆弾が落ち、日本軍の壕へ向かった。その壕は松の木や角材を支えにした頑丈なものだった。しかし、入ることはできなかった。

「軍曹に『民間人は危ない!』と言われ、追い出すかのような言葉を投げかけられました」

仕方なく、別の壕に入ることになった。そこに兄がやってきた。機関銃の音が鳴り響き、兄が外をのぞくと、弾が兄の頭を直撃。即死だった。しかし大城さん親子に涙はなかった。その思いを言葉にしている。

「先にいったか」

そして、4月16日、米軍が島に上陸。

その後の体験は、大城さんが裁判所に提出した陳述書に詳しく記載されている。

大城さんと両親の3人は一ツ岸と呼ばれる壕にいた。日本軍の防衛隊員を含め、28人が逃げ込んでいた。防衛隊員は、徴兵制とは別で、現地で召集された兵士のことで、地元の部隊に入れられた。土木工事や物資運搬などをさせられた。軍服や小銃を支給されない者もいた。

この壕に、日本軍陣地にいた姉が亡くなったという連絡があった。大城さん家族はこの時も一言だけだった。

「先になったか、私たちもまもなく行くよ」

「集団自決」の証言

4月23日、壕には24人がいた。そこに、敵軍の兵士が流暢な日本語で投降を呼びかけた。

「民間人は心配しないで出てきなさい」

米軍の捕虜になれば殺されると教えられてきた大城さんら住民は、投降に応じなかった。

数時間後、米軍は壕の割れ目から煙弾を投げ込んだ。その時、防衛隊員の大城梅吉さんが壕にいる住民に大声をかけた。

「皆、今死ぬから固まるように」

大城さんを含め24人は壕の中の石垣の裏に固まった。防衛隊員は2個の爆雷を準備。1個を破裂させた。隊員は死なず、大城さんも無事だった。

「目の前が真っ黒になり、周りがよく見えなくなりました」

防衛隊員は2個目を破裂させた。大城さんは気を失い、数分後、目を覚ました。

「周りは真っ白な土砂でそこに埋まっていました。人の頭が5つ転がっているのが見えました。一人は11歳の少年でした。残りの四人の頭は皮がむけて誰かはわかりませんでした」

「身体が痛みはじめ、埋もれながら泣き出しました」

バラバラになった遺体が記憶から消えない(大城さん画)

この「集団自決」で22人が亡くなった。生存者は大城さんと母の2人だけだった。父は壕の外の岩間に隠れていて、「集団自決」にあわなかった。大城さんは爆雷の破片で胸を負傷し、下半身を骨折した。

大城さんが壕の外に出ると、米兵が立っていた。大城さんは、収容所に連れて行かれ、そこで治療を受けた。

学校では生徒に「米軍の捕虜になれば殺される」と教えた。しかし、米軍は捕虜となった大城さんを治療した。授業はフェイクだったのだ。

4月21日、米軍上陸から6日で、米軍が勝利し、伊江島の激戦が終わった。住民およそ1500人、日本兵およそ2000人が亡くなった。伊江島を制した米軍は、破壊された飛行場を修復。航空部隊が南九州などへ空爆を始めた。

戦後も続く戦争被害

戦後、大城さんは胸と左膝関節の障害を負い、痛みと不便を感じながら、大工の仕事に就いた。戦後40年以上経った1989年、大城さんに異変が起こった。

「『集団自決』で負傷した左足の痛みが増してきて、激痛が走りました。大工の仕事を辞めざるを得なくなりました」

50歳を過ぎたころから、大城さんは沖縄戦で体験した「集団自決」の場面を思い出すようになり、同時に、左足が痛みだしたというのだ。しかし、整形外科の異常はみられない。精神科医の診断を受け、「外傷性精神障害」と診断された。いわゆる「戦争PTSD」だ。左足の痛みは、沖縄戦のトラウマ記憶に由来していることが診断でわかった。

沖縄戦の被害者のうち、「戦闘参加者」と認定されると、援護法の対象となり、援護金の支給を受けることができる。「集団自決」で負傷した被害者も対象になる。ただし、条件がある。大城さんは援護法適用の申請を行ったが、却下された。役所は次のように却下の理由を示した。

「被害を証明するため、『集団自決』の現場にいた3人の証明が、援護法適用認定の必要条件だ。認められない」

生き残ったのは大城さんと母の2人だけ、他に証言者はいない。大城さんは憤る。

「戦場における出来事の証明を過度に要求するもので、到底納得できない」

一般民間人の戦争被害者に対する法律は存在しない。子どものころ「米軍の捕虜になれば殺される」と教えられ、それを信じ、空襲で逃げ場を失い、「集団自決」で負傷し、戦後心の病に侵された大城さんに、政府は手を差し伸べない。陳述書の最後、大城さんが訴える。

「沖縄戦の一般民間人に対して、これまで国は謝罪もなく償いもありません。軍人も民間人も人権は平等です」

(続く)

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