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沖縄・防衛隊の悲劇【司法が認めた沖縄戦の実態⑨】

沖縄・防衛隊の悲劇【司法が認めた沖縄戦の実態⑨】

沖縄戦では地元沖縄県民も防衛隊として戦地に投入された。そして多くが戦死。しかし戦後、その証明が出来ずに国の援護が受けられない人もいる。(文箭祥人)

沖縄戦当時、16歳だった原告の崎山朝助さん。沖縄戦が始まる前、母のマドが病死し、父の朝明は戦死した。

朝助さんにきょうだいはなく、戦争孤児になった。父と息子には共通点がある。陸軍の防衛召集によって、働き盛りの父も青年期の息子も防衛隊に入った。父は戦死し、息子は戦場で重傷を負った。

防衛隊とは

ひめゆり隊や学徒隊は知る人が多くいる一方、防衛隊はあまり知られていない。1941年12月8日、太平洋戦争がはじまり、1942年4月、アメリカ軍は東京や名古屋、神戸など日本本土をはじめて空襲した。これを契機に、陸軍は防衛召集の仕組みをつくった。防衛隊の任務は空襲の際の治安維持や離島の警備で、地元に配属された。地元の部隊にまとまって配属されることが多かったため、防衛隊と呼ばれたが、防衛隊という部隊があるわけではない。防衛隊員も軍人であるが、通常の部隊と違って十分な武器を与えられなかった。

沖縄戦が迫る1945年はじめごろ、父の朝明は防衛召集され、戦争に参加し戦死した。朝明と同様、多くの働き盛りの男性が防衛召集された。その職業は、議員、教師、公務員、新聞記者、酒屋や食堂の店主・店員、大工、漁師など多岐にわたった。任務は飛行場建設とその修復が主だった。

16歳の青年が防衛隊へ

息子の朝助さんは16歳で防衛召集された。なぜ、16歳の青年が防衛召集されたのか。

1944年10月、陸軍は防衛召集規則を改変する。召集可能な年齢を「17歳以上」から「14歳以上」に下げたのだ。この改変で16歳だった朝助さんは防衛召集の対象となった。ただし、入隊には、本人が志願し、戸主や親権者らが承認する必要があった。両親がいない朝助さんは、これらの条件がそろったうえでの入隊だったのか。

アメリカ軍が沖縄に上陸する直前の1945年3月上旬、沖縄の陸軍は大規模な防衛召集を行った。その数、約1万5千人。1944年10月から1945年5月までの防衛召集は総人数約2万2千人(記録がないエリアや時期がある)だが、そのうちの約70%がこの時期に集中している。空襲時の治安維持や離島の警備という当初の任務を超え、兵士として利用できる者は根こそぎ召集しようというものだった。朝助さんはこの時期に召集された。

北部・八重岳の戦闘に参加した防衛隊員

朝助さんが送り出された戦場は沖縄県北部の本部(もとぶ)半島。今の本部半島にはジンベイザメが泳ぐ巨大水槽で知られる沖縄美ら海水族館があり、1975年には沖縄国際海洋博覧会が開かれた。

朝助さんが配属された部隊は、隊長の宇土武彦の名前をとって「宇土部隊」と呼ばれ、防衛召集を含め、約3000人の兵士が所属していた。任務は、航空基地建設の場所となった伊江島を極力保持しながら本部半島を確保すること、北部で遊撃戦(ゲリラ戦)を展開することであった。守備範囲は沖縄県北部全域を中心にした沖縄本島の約50%。守備範囲の広さに比べ、兵士の数はあまりに少なかった。

宇土部隊は本部半島の八重岳・真部山一帯に陣地を設置し、兵士を集中させた。地元住民は日本軍や町役場の命令でこの地帯に避難していた。さらに、人口が集中する沖縄県中・南部の住民10万人を避難させる計画が立てられ、朝助さんらの守備範囲の各町村に割り当てられていた。そして、住民と軍人がひしめきあう中、この山岳地帯が日米の戦闘の場と化す。4月7日、既に上陸していた米軍は八重岳近くに陣地を設置した。

朝助さんは陳述書に戦場の様子を記している。

「1945年4月中旬ごろ、アメリカ軍の攻撃は激しくなり、戦闘行動に参加する機会が増えてきました」

4月10日、アメリカ軍は海から艦砲射撃を始め、宇土部隊や避難民は黒山のごとく海に浮かぶ無数の艦船から間断ない攻撃を受けた。

「アメリカ軍の偵察用のトンボ飛行機が飛び去ったあとしばらくして、海から激しい艦砲射撃を受けて、ほとんどの隊員が即死しました」

この時、朝助さんに艦砲の破片があたり、体中に破片がつきささった。

「行動が不自由になったにもかかわらず、除隊にはなりませんでした」

その後、アメリカ軍は山岳の東側からも西側からも日本軍に迫った。追い込まれた日本軍はアメリカ軍の攻撃にさらされた。

「銃をかついで作戦に参加していました。部隊はアメリカ軍に背後から猛攻撃を受け、隊員多数即死しました」

朝助さんの腰を弾丸が貫通した。

「腸が飛び出し、その腸を抱えて歩いていて気を失いました」

重傷を負い倒れた朝助さんを、叔母が捜し歩き、発見された。

16日、アメリカ軍は八重岳を占領、宇土部隊は八重岳・真部山一帯から撤退し、戦闘は終わった。八重岳・真部山の戦闘を含め北部の戦闘で、宇土部隊は約2500人が戦死した。戦後、八重岳は日本一早い桜まつり「本部八重岳桜まつり」で知られる桜の名所となった。

沖縄県各地で、約2万2千人を超える住民が防衛召集され、その約半数の人が戦死したとされている。その一方、壮年の防衛隊員のなかに、部隊から脱走したり、戦線から離脱した人が多くいて、そのため生き延びた人もいる。

「沖縄県民を差別したり暴行する日本兵とは一緒に死ねない」。

「残してきた妻や子どもが心配だ」。

「このままでは戦争に負けるだろう」。

こうした理由で脱走、離脱したのだという。

実態を把握していない国

八重岳での戦闘で腸が飛び出すほどの重傷を負った朝助さんは戦後、腸の病気にかかることが多くなり、腸から膿を取り除く手術を受けた。また、背中の骨の痛みを取り除くため、両足の骨を背中に移植する手術も受けた。レントゲンで背中に銃弾の破片が残っていることが確認された。

朝助さんは今も残る身体の被害を陳述書に書いている。

「戦争によるけがのため現在なお、痛みやしびれ感などがあり、苦しんでいます」

戦争孤児の朝助さんは、母方の祖母に育てられた。朝助さんは心のうちを吐露する。

「親の愛情にうえ、さびしい生活を送り、人との交流が少なく、人付き合いが苦痛になることが多くあります」

朝助さんは不自由なからだを酷使して農業を営んだ。結婚し、子どもを育てた。今の心境を綴っている。

「子どもたちのためにも戦争のない世の中をつくりたいと思い起しているところです」

朝助さんは、戦後65年経ったとき、戦後補償の法律相談ではじめて、軍人や軍属、準軍属を援護する援護法の存在を教えられる。しかし、援護を受けることはなかった。

「証人が3名も必要だとのことですので、申請を断念しました」

朝助さんが経験した戦場は生存者も少なく、また生存者も脱走したケースが多い。それで証言者になってくれるのか?実態をみれば、戦争被害を証明する証人を3人そろえるのは現実的ではない。

朝助さんは、国が沖縄戦の実態をきちんと把握していないと感じている。

本部町の今

(続く)

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