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【司法が認めた沖縄戦の実態㉖】十・十空襲と日本兵による「追い出し」

【司法が認めた沖縄戦の実態㉖】十・十空襲と日本兵による「追い出し」

沖縄本島をアメリカ軍が空襲した「十・十空襲」。焼きだされた県民は隠れ場所を求めてさまよう。しかしそこで体験するのは日本兵による「追い出し」だった。それは県民の命を奪い、生き残った子供を孤児にした。写真は久志孤児院跡。(文/写真:文箭祥人)

十・十空襲

「外には大勢の大人がいて、『逃げなさい』という大声が飛び交っていました。演習ではない、これは戦争なんだとわかりました」

陳述書にこう書いたのは國吉新徳さん。1944年10月10日、真和志市(現在の那覇市)に暮らしていた当時8歳だった。國吉さんは飛行機の爆音を耳にする。日本軍が演習を始めたと思った國吉さんは、その様子を見に行こうと外に出たという。飛来したのはアメリカ軍の爆撃機だった。

これは、沖縄県民が初めて経験した大空襲だった。「十・十空襲」と呼ばれている。

國吉さんは、両親と兄、妹と暮らしていた。國吉さん家族に被害はなく、家屋も無事だった。しかし、この時から家と壕の二重生活が始まる。

翌年の3月に入り空襲が激しくなると、國吉さん家族は家で暮らすことをあきらめ、墓に隠れて生活することになる。避難生活は、姉美恵子とその二人の子ども、もう一人の姉恵子の子どもが一緒だった。恵子は当時、南洋にいたという。

二度も避難場所から日本兵に追い出される

一か月後の4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、戦闘が激しくなる。ある日、隠れていた墓に日本兵がやってくる。國吉さんはこの時の様子を陳述書に書いている。

「兵士が父に『この辺りも戦闘が激しくなってくるから、早くに避難するように』と言ったそうです。父に聞くと、『避難しなさい』というのは、ほとんど命令だったそうです」

「避難」というのは、この連載で何度も出て来る住民の追い出しだ。付近にはたくさんの墓があり、大勢の住民が隠れていた。全員が兵士に追い出されたという。

國吉さん家族らは南部へ移動する。現在の南城市の山の上にあった壕に身を潜めていた時、また日本兵がやってくる。

「『壕は兵隊が使うから』と追い出されました」

山を下り、ある集落へ向かう。

「壕から集落に行くまで、周囲は艦砲射撃を受けました。この時、母ウトに艦砲の破片があたり、けがをしました」

集落にたどり着き、民家に避難。それから2、3日後のこと。

「隠れていた民家に艦砲射撃があたりました。家の中にいた母と姉恵子の子どもヤスオが亡くなりました。二人の亡骸は集落近くに埋葬しました」

隠れていた馬小屋が攻撃され、死傷者が出る

國吉さん家族らはさらに南へ。糸満市国吉という集落に着き、馬小屋に隠れる。その翌日か2日後、馬小屋に迫撃砲か艦砲射撃が襲う。

「屋根は吹き飛ばされました。馬小屋の周囲には石が積まれていて、馬小屋自体はつぶれませんでした」

しかし、國吉さん家族は被害を受ける。

「私は左の太ももに破片を受け、けがをしました。近くにいた父は、ももの後ろからお尻にかけて肉がえぐり取られていました。大量の血が流れていました。私は自分もけがをしているので何もしてあげることができませんでした。父は歩ける状態ではなく、はうのがやっとでした」

父が國吉さんに声をかける。

「父は私に『捕虜になっても殺される。どうせ死ぬなら自分で死ぬ。近くに池があるから池に入って一緒に死のう』と言いました。父がそう言うのならと思って、必死にはって馬小屋の外に出ました」

國吉さんと父は外に出る。

「そこに兄と姉がいました。二人ともけがはありませんでした。しかし、姉の二人の子どもの姿はありませんでした。兄が私の体についていた他人の肉や血を洗い流してくれました。けがをしたところに豚の脂を塗ってくれました」

アメリカ軍の「捕虜」となり、収容所へ

それからどれほどの時間が経過したのか、國吉さんに記憶はないが、アメリカ兵が現れる。

「集落にいた人全員が『捕虜』になりました。歩ける人からアメリカ兵に連れられて収容所に歩いて行きました。私は歩くことができなかったので、後ろの方になりました。その後、担架に乗せられて、糸満の収容所に入りました」

大きなけがをした父はどうなったのか。

「父が馬小屋からはって出てきたのは見ましたが、池に入ったのか、外に出たところで力尽きたのか、わかりません。その後、父に会うことはできませんでした」

國吉さんは糸満の収容所から別の収容所へ。

「けがをしていたので、糸満の収容所から北部の久志(くし)に移されました。久志の収容所にあった診療所で治療を受けました」

久志地区は名護市東海岸に位置し、背後の奥深い山とサンゴ礁の海に抱かれ、小さな集落が点在していた。アメリカ軍は各集落に収容所をつくった。

収容所は北部に集中していた。沖縄県史に「比較的平坦な中南部に本土攻撃の基地(飛行場等)を建設し、そのため、収容所が起伏の激しい北部に集中したということになろう」と記されている。

アメリカ軍は南部の民間人捕虜をトラックで久志地区に運んでいたが、効率が悪く、船を使うようになる。名護市史にこう記載されている。

「米軍はLST(戦車揚陸艦)で輸送するため久志村大浦湾に港湾施設の建設を進め、7月以降、民間人を集団でLSTに詰め込んで運んだ」

この「久志村大浦湾」では現在、辺野古新基地建設が進んでいる。

久志地区の収容所には、南部の激戦地をはじめ各地で「捕虜」となった民間人だけでなく、地元住民やアメリカ軍によって付近の山々から下山させられた人たちがいた。どれほどの人数が収容されたのだろうか。名護市史にはこう書かれている。

「米軍がD-4地区と呼んだ東海岸の金武から嘉陽までの総人口は、米軍の統計によると6月5日の9万4,886人から8月31日には26万1,081人に上っている」

金武は久志地区より南に位置し、嘉陽は久志地区内のなかで北側にある集落。

6月から8月までの久志地区を含む北部地域の収容地区における男性・女性・子どもの割合が名護市史に記載されている。

「男性は約17%、女性は約36%、子どもは約47%」

國吉さんは収容所にある診療所で治療を受け、けがはおよそ1か月で治ったという。

収容所内の孤児院へ   

その後、國吉さんは久志地区にある孤児院に入れられる。

「孤児院には30人以上の子どもがいました」

沖縄県史や名護市史によると、アメリカ軍は久志地区の久志グヮーと瀬嵩(せだか)の2つの集落にそれぞれ孤児院を開設した。冒頭の写真は久志グヮーの孤児院の跡地。

沖縄県史に13の孤児院が記録されていて、それぞれの孤児院の名称や収容人数、開設期間などが記載されている。ただし、戦争孤児の総数が不確定であるなど戦争孤児についての情報は少ない。久志地区の2つの孤児院の情報もわずかしかない。

「瀬嵩孤児院 1946年1月38名 乳ばなれのしない幼児があり、幼児、少年と数十名もいた」

「久志孤児院 1946年1月46名」

國吉さんは孤児院での生活をこう書いている。

「孤児院にいた時には食事が足りないので、自分より年上の子と一緒に孤児院を出て、食糧探しに行くことがよくありました」

ある日のこと。

「食糧を探しに名護の方に行った際、食糧泥棒ということで警察に捕まりました。小さな山羊小屋のような小さな囲いに5人くらいの子と一緒に入れられました」

収容所で蔓延したマラリアに罹患

小さな囲いに入れられたときのこと。

「マラリアに罹りました」

マラリアは久志地区を含む北部の収容所で蔓延し、戦火を生き延びた人たちの命を奪った。マラリアは病原体のマラリア原虫をハマダラ蚊が媒介する感染症だ。発症すると40度前後の高熱と、押さえ込む人を跳ね飛ばすほどの激しい震えに襲われる。それが定期的に繰り返される。戦場を逃げまどい、栄養失調に苦しんだ避難民は弱い者から次々に死んでいった。名護市史にマラリアについてこう記載されている。

「戦火の下での逃避生活や山での避難生活の期間にはなかったマラリアが各収容地区で爆発的に流行したのはなぜだろうか?マラリア原虫が久志地区に存在していたとしても、平時の通常の生活では発症することはなかったと思われる。戦争がなければありえなかった『マラリア地獄』だった。これを『戦争マラリア』と呼ばずして何と呼べばいいのだろう」

マラリアに罹患した國吉さんは、警察関係のミシン作業をしている宮城さんという人の家に預けられる。

「宮城さんは良くしてくれました。マラリアが治ってからも、しばらく宮城さんの家から学校に通いました」

戦後、再び孤児院へ

宮城さんとの出会いから半年後のこと。

「私の顔を知っている人が名護まで来たことがあり、私が名護にいることを祖母に伝え、祖母が名護まで私を迎えに来てくれました」

國吉さんは祖母と一緒に那覇の実家に帰る。

「那覇の実家に着くと、戦場を一緒に逃げた姉の美恵子がいました。それから祖母と一緒に暮らすようになりました。祖母は70歳くらいで男手はありませんでした。私は学校に行くことができず、毎日、畑仕事や水汲みの手伝いをさせられました」

こうした生活が1年以上過ぎ、区長が國吉さんの生活を見かねて孤児院に入ることをすすめる。そして國吉さんは首里の孤児院に入り、その後、別の二つの孤児院に移り、中学校を卒業するまで、孤児院で生活をする。

「中学校卒業後、琉球政府の仕事をしていた18歳のとき、姉や兄たちと再会しました」

両親を失った國吉さんは戦中戦後を通して、少年青年期を孤児院で過ごした。

戦争PTSDと診断される

國吉さんは60代になり、つぎのような症状に苦しむ。

「戦争のことを思い出すことがあります。戦争のことを話していたら、涙ぐみます。戦場でけがした太ももは、今でも寒いときに痛くなります。字を書けないことをいつも隠して生きてきました」

これらの症状についてこう診断される。

「沖縄戦の記憶が決して過去のことではなく、現在進行形のものとして生き続けている。戦争PTSDです」

國吉さんは陳述書の最後に、こう訴える。

「戦争で両親を亡くしました。戦後の長い期間、孤児院で過ごしました。精神的な被害も受けています。戦争がなければ、このような思いをすることはなかったと思います。私の思いを理解していただきたいと心からお願いいたします」

(つづく)

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