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【司法が認めた沖縄戦の実態㉕】独りぼっちになったツルちゃん

【司法が認めた沖縄戦の実態㉕】独りぼっちになったツルちゃん

最高裁判決が認めた陳述書から、沖縄戦の事実を描く連載。多くの子供が家族を失い独りぼっちになった。それが戦場となった地の現実だった。(写真/文:文箭祥人)

天秤棒の思い出を原告の金城ツル子さんは陳述書にこう記す。

「父が掘った芋の土を落とす手伝いをしました。帰りは天秤の片方に畑で収穫した農作物を入れて、もう片方に私が乗りました。天秤に乗るのが楽しかった記憶があります」

その姿は、絵本になっている。タイトルは「ツルちゃん」。天秤棒に乗る笑顔のツルちゃんが描かれている。金城さんは娘の金城明美さんに自身の沖縄戦の体験を繰り返し話し、明美さんが絵本にまとめた。絵も明美さんが描いた。

8歳の少女、家族とともに避難を続ける

金城さんは沖縄県中部の中城村(なかぐすくそん)に、両親・二人の姉・妹・弟と暮らしていた。兄は日本軍の飛行場建設に駆り出された。沖縄戦当時、金城さんは8歳、小学2年生だった。

1945年3月末、金城さん家族7人と父の姉の家族3人(叔父、叔母、娘)の避難が始まる。中城村は4月2日、戦場と化した。冒頭の写真は村の図書館に置かれた弾の跡が残る壁。

中城村から直線距離にして6キロ北の普天間まで歩く。途中、山ひとつ越えた。普天間の壕はすでに多くの人が隠れていた。再び、中城村に戻るが、空襲で被害が出ていた。そして、日本兵が逃げて行く南部へ。避難を始めておよそ2か月後の5月末頃、じっとり雨が降る季節、中城村から5キロ南の南風原(はえばる)に建てられた陸軍病院の壕にたどり着く。壕の中は負傷兵が多くいて、多くの住民は壕の出入り口に隠れていた。金城さんは陳述書にこう書いている。

「壕の出入り口でも、ものすぐい臭いがしたのを覚えています」

数日後、壕の奥からこう言われる。

「部隊が来るから住民は出なさい」

父が爆死、母ときょうだいも

翌朝、金城さんの父と叔父は2家族が隠れるための壕を掘りに行く。その時。

「父に爆弾があたり、即死状態でした。私たち家族は急いで逃げながら父の元に行きました。父の姿を見て、私たち家族も殺されると思いました」

叔父が父の亡骸を埋め、直ちに南風原からさらに南へ。山道を歩き、日中は隠れそうな場所があれば隠れ、夜になると移動する、これを繰り返した。

ある日のこと。

「前を歩いている母と姉、妹、弟が近くの民家に入って行きました。その民家で休むんだなと思っていたら、母たちが民家に入った途端、爆弾が落とされました」

金城さんと叔父、叔母、その娘のヨシ子姉は近くの豚小屋に逃げる。

「その時たまたま、いとこの嫁も一緒になりました。いとこの嫁はすでに亡くなっている赤ちゃんをおんぶしたり、だっこしたりしていました。この豚小屋にも爆弾を落とされました。赤ちゃんを抱いたまま亡くなりました。叔父は手を、叔母はあごを、ヨシ子姉は肩をけがしました。私は豚小屋の石が崩れ、その石で頭を三か所、けがをしました」

両親ときょうだいを失くした金城さんは、叔父、叔母、ヨシ子姉とさらに南へ。

「母たちの様子を確認する間もなく逃げました」

南へ向う人の流れ。

「周りには私たちと同じように逃げ回る人たちがいました。逃げる途中、たくさんの人が亡くなっていました」

金城さんはヨシ子姉が手を引いて逃げる。

負傷した叔母を見捨て、さらに避難を続ける

山の中を避難している時、あごをけがした叔母が歩けなくなる。

「叔父が近くにあった穴に叔母を横にさせ、木の枝や草を掛けました。そして『また来るからね』と言っていました。叔母は『おいていかんで。水ちょうだい』と言っていました。私は怖くなって叔父と一緒に逃げました」

金城さんは叔父、ヨシ子姉とさらに南へ。日中は山の中に隠れ、夜になって逃げる、これを毎日、繰り返す。

「私たちと同じように逃げ回る人がたくさんいました。亡くなっている人もたくさんいました」

最南端の喜屋武(きゃん)の壕までたどり着く。壕には多くの日本兵もいた。この時、爆弾の音は聞こえなかったという。

金城さんたちはじっと壕に隠れていた。そこへ、大きな体をした「アメリカー」がやってきた。

「アメリカ兵の捕虜になりました。私とヨシ子姉は同じトラックに乗せられました。叔父は別のトラックに乗せられました。その後、叔父とは音信不通です」

米軍野戦病院へ 8歳の少女がひとりぼっちに

金城さんとヨシ子姉が着いたのは、北部東海岸の宜野座にあるアメリカ軍の野戦病院。

宜野座村誌に宜野座地区の難民収容所の概要が次のように記されている。

「難民収容所は5つあり、収容人数合わせて、およそ16万5千人。ただし、人口移動が激しく実数を明確につかむのは難しいとしている。5つの難民収容所のうちの1つに野戦病院が置かれた。アメリカ軍は沖縄戦と同時に日本本土進攻にそなえて基地を建設し、中南部の平野部と湾岸地帯を無人地帯にした。そのため中南部の戦場で難民となった住民は北部の東海岸に移された」

野戦病院で、肩を負傷したヨシ子姉は寝台に寝かされ、金城さんはそばの地面に寝ていた。

「到着してどのくらい時間が過ぎたかわかりませんが、ヨシ子姉の肩からウジがわき、どんどん衰弱していきました。自分の最期が近いと思ったのか、私に私たちの家族が亡くなった場所のことを話し、骨を拾って、お墓に入れるように言いました」

ヨシ子姉は金城さんに言葉を残した。絵本「ツルちゃん」にこう書かれている。

「ねーねーはね、ほんとうは養女なんだよ。おじさんの子どもじゃないよ。ねーねーのほんとうのお父さんは、ツルちゃんの父さんだよ。ねーねーはツルちゃんのほんとうのねーねーになるわけ。ごめんね」

金城さんはずっと、ヨシ子姉のそばを離れなかった。8月ごろ、ヨシ子姉は亡くなる。野戦病院近くの集団墓地に埋められた。

「私はひとりぼっちになりました。ひとりぼっちになったことが怖くて、泣きました」

宜野座村が1985年に発行した「宜野座米軍野戦病院集団埋葬地収骨報告書」に「宜野座米軍野戦病院」について、こう記述されている。

「軍病院には7、8月頃、4千人に上る患者が収容されていた。そのほとんどが南部戦線で傷ついた者であった。患者の大体7割程度は女性だった。病棟からは毎日のように死者が出た」

食事についての記述が残されている。

「食事も至ってまずく、おまけに少量で、一日二回しか渡らなかった。栄養の回復は容易でなく、そのため目に見えて衰えていく患者も多かった。家族や知人が来て栄養を補給してくれる患者は日一日と快くなり退院も早かった」

一方で、回復せずに死んでいく捕虜も少なくなかった。埋葬を行った男性が証言している。

「米軍の指示で墓穴を掘り、遺体を埋葬しました。遺体は2、3日は身元確認のため、野戦病院の死体安置所に置かれた後、米兵が運転する小型トラックで4体ずつ現場に運ばれてきました。1日に30体を超える時もありました」

別の男性の証言。

「身元の分かる死体は全体の約3分の1くらいで、一つの穴に一人ずつ、何か目印となるものを一緒に入れて埋め、名前の書かれた板の墓標を立てた。身元の分からない死体はそのまま埋めた。平均して一日に十四、十五体埋めたと思う」

金城さんの陳述書に戻る。

「野戦病院には朝鮮の人が働いていました。『あなたひとりねえ。自分たちのところの来るね』と言われました。行くあてもなかったので、その人についていきました」

「慰安婦」に関して沖縄県史にこう記されている。

「日本軍は、沖縄にのべ145か所の後方施設の『慰安所』を設置し、『慰安婦』を配置した。このうち約52か所で、朝鮮人女性たちを見たとの証言がある」

沖縄戦末期、日本軍は南部へ移動する。軍は戦場で「慰安婦」を置き去りにする。朝鮮人女性たちは土地勘もなく知り合いもいない戦場で逃げ惑った。命を落とさず、アメリカ軍に収容された朝鮮人女性たちは野戦病院や孤児院などで働いた。

金城さんの証言が沖縄県史に記述されている。

「1945年7月、戦災孤児となった私は、宜野座の野戦病院で看護婦だった朝鮮の女性たちに引き取られ、11月まで一緒に暮らしました。8月か9月にキャンプ・コザに移動。フサさんと呼ばれた女性は私を朝鮮半島に連れていくか迷ってコザの孤児院を訪れましたが、『慰安婦』だったことを子どもたちにからかわれたため、いたたまれない様子で私を連れテントへ戻りました」

その後、金城さんは父の姉と再会し、朝鮮人女性たちとの生活は終わった。

一人生き残ったさみしさに自殺を考える

金城さんは野戦病院から元々暮らしていた中城村の部落に戻る。しかし、そこはアメリカ軍に接収されていた。そのため、隣の部落に行き、テント生活が始まる。父の姉は生活が厳しく、姉の四男に金城さんを預ける。

「子どもでも働かないと生活が成り立たない状態でした。ほとんど学校には行かず、畑に一人で行き、芋を掘って帰りました」

小学5年生になったある日。

「私は独りになって寂しくて、親を恨みました。ある日の夕方、私は死ぬ気持ちで海に行きました。空を見上げたら星も見え、思い止まりました」

その後、金城さんは学校に通うことなく、働き続ける。

「赤ちゃんが産まれた家でお手伝いを始めました。およそ3か月の期間でした。それから産婆さんの伝手で赤ちゃんが産まれる別の家で住み込みで働きました。収入のほとんどを四男に渡しました」

金城さんはさまざまな苦労をしながら、身を粉にして働き、そのかいがあって、25歳の時に結婚し、子どもも産まれ、幸せを感じているという。

「私の子どもたちには、私の両親やきょうだいからのお年玉やお祝いがありません。戦争がなければとよく思います」

幸せを感じるというが、金城さんは精神的な病に苦しんでいる。

「戦場で、歩けなくなった叔母を置き去りにして逃げました。そのとき、叔母が言った『水をちょうだい』の言葉を思い出して苦しんでいます」

さらに。

「父が爆弾を受けて亡くなった時の場面を思い出します。父の遺体の腐敗臭も蘇ってきます。今も戦争で追われている夢を見ます。テレビで戦場の場面のニュースを見て涙が出ます」

戦後70年の2015年、こうした症状に精神科医の診断が下る。

「沖縄戦に由来するPTSDである」

金城さんを苦しめているのはこれらに止まらない。小学3年までしか学校に通えなかった。

「読み書きがうまくできません。だから人前に出るのが怖い。いつも、自分は間違っているのではないかという思いが取れません」

沖縄戦で亡くなった一般住民に対する補償は未だおこなわれていない。陳述書の最後に金城さんはこう訴える。

「命はお金に変えられませんが、私の家族にきちんと補償してほしいです。私が元気なうちに、この問題を解決してもらいたいです。そうしなければ亡くなった方たちが浮かばれないのです」

(つづく)

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