インファクト

調査報道とファクトチェックで新しいジャーナリズムを創造します

【司法が認めた沖縄戦の真実㉙】「恋の島」も戦場だった

【司法が認めた沖縄戦の真実㉙】「恋の島」も戦場だった

沖縄県今帰仁村にある古宇利島。ハート形の岩などがあり、恋の島として若者に人気がある。この恋の島も昔、戦場だった。裁判所が認めた資料から沖縄戦の実態を伝える29回目。(取材/文箭祥人)

「車で1周10分ほどの小さな島ですが、カフェやホテルが続々オープンしている人気のアイランド。アダムとイブに似た伝説が残り〝恋の島〟としても知られています」

沖縄県北部・今帰仁村(なきじんそん)の観光協会がこう紹介する古宇利島(こうりじま=冒頭の写真)。この島はかつて戦場だった。沖縄戦当時15歳だった原告の上原良子さんは陳述書に次のように書いている。

「今帰仁村の運天港(うんてんこう)に海軍白石部隊、山根部隊、鶴田部隊が駐屯していました。島の青年団の男女および一般の男性たちが、弾薬施設作りや壕掘り作業や炊事のため徴用されていました」

上原さんは古宇利島で生まれた。島の幼稚園を出て古宇利小学校に入学し、「両親・兄弟姉妹らと同居し、普通の平穏な生活をして暮らしていました」という。父照屋林永さんは資産家で3000坪の土地を所有し、そこに50坪の木造平屋を建てて、家族が暮らしていたという。それが沖縄戦で一変する。

今帰仁村史にこう記述されている。

「本土決戦に備えて沖縄守備隊の配置が強化されていたが、本村にも十・十空襲より二か月前の八月八日(1944年8月8日)に守備隊が駐屯した。運天港に、海上特攻隊、白石、鶴田、山根各隊の魚雷艇、特殊潜航隊が配備されていた」

運天港は古宇利島から南西へ約2キロに位置する。大正期から昭和初期に、運天港は奄美諸島や近隣離島との間の交通の要所となり、流通の中心地として畜産物・サトウキビ・黒糖などを取り扱っていた。

今帰仁村史と古宇利誌に白石隊や鶴田隊、山根隊に関する記述があり、整理すると次のようになる。

白石隊と鶴田隊はいずれも海上奇襲部隊。白石隊は魚雷艇18隻を保有し隊員は360名、鶴田隊は魚雷艇11隻、隊員少なくとも300名。山根隊は設営隊で、隊員は600名。3部隊を合わせると、隊員は1200名を超える。近くの国民学校に駐屯する部隊もあった。

今帰仁村史に続けてこう記されている。

「村内の可動者は動員され、兵隊と一緒に陣地構築に従事させられていた」

古宇利島の若者たちも動員される。上原さんもその一人だった。

1944年9月、上原さんに日本軍や今帰仁村役場の命令が下り、古宇利島から運天港へ。

「沖縄戦当時、私は女子青年団に入隊していました。女子青年団の一員として、軍や村役場の命令で壕掘り作業に徴用されて、勤労隊や炊事係として働きました」

文部省の肝いりで組織され、女性たちを国策に協力させるため結成された女子青年団。当然の様に、戦争遂行の一翼を担わされていく。

日本軍に徴用されてから半年後の1945年3月につい上原さんは記す。

「戦況は日増しに悪化して、壕掘り作業も困難となり、私たち女性青年団はやむなく、古宇利島で一時待機していました」

4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸。地上戦が始まる。海域でも日本軍の特攻隊とアメリカ軍の艦隊による戦闘が起こる。古宇利島の周辺の海も戦場となる。4月6日、古宇利島の1.5キロ沖合で、アメリカの軍艦エモンズが日本軍の神風特攻機による激突を受け、沈没。乗員60人が戦死。今もエモンズは古宇利島沖合40メートルの海底に沈んでいる。

上原さんら女子青年団が古宇利島に移動した後、運天港に駐屯していた白石隊の兵隊40人が古宇利島へ移る。

「兵隊たちは民家に分かれて駐屯することになり、私たちも兵隊と行動をともにしました。私の家にも10名ぐらいの兵隊が駐屯するようになりました。4月10日から、白石隊の斉藤兵曹長の命令で、母と叔母、私の3人が私たちの家で炊事作業に従事しました」

さらに、陣地構築、勤労奉仕作業、竹やり係にも従事する。そして、4月20日についての上原さんの記述だ。

「名護市の屋我地島(やがじしま)方面を攻撃していたアメリカ軍は方向を変えて、古宇利島へ集中攻撃を行いました」

古宇利島の南に位置する屋我地島。古宇利島とはわずか2キロしか離れていない。古宇利島は南北も東西も約2キロの円形の小島。そこにアメリカ軍が集中攻撃をしかける。その砲弾が上原さんに襲い掛かる。

「私の家の周辺や炊事場近くに艦砲弾が落下さく裂しました。家の入口近くで仕事をしていた私は、その破片が左足の甲を貫通、右足の薬指を付け根から切断されました。出血多量で30分ぐらい、意識を失いました」

上原さんは、白石隊の斉藤兵曹長や井上隊員らに救助される。古宇利島の叔母の壕に運ばれ、そこで負傷していた佐藤隊員から包帯や消毒液をもらい、応急処理を受け、その後、毎日手当てを受ける。

「1日1回きりの消毒だけでは痛みはとれませんでした。泣きわめいていました」

孫の姿をみかねた祖母が1日に4、5回、お灸をすえる。それが毎日続く。

「はみだしていた足の肉は次第に癒着していきました」

2か月後の6月末、上原さんは避難していた壕から自宅に戻る。6月23日、日本軍の組織的戦闘が終結した。それから上原さんの戦後が始まる。しかし…

「両足の傷により、人の介助がなければ歩くことが出来ませんでした」

上原さんの傷は元には戻らない。

「戦争で被害を受けて、3、4年ぐらいは、杖をつきながら母親と同居生活を続けていました」

資産家であった父照屋林永さんは、日本海軍の兵曹長として、艦船に乗船し戦闘作戦に参加。1945年3月21日、広島方面で戦死した。

上間さんは19歳の時、杖を使わない生活を送れるようになり、那覇市内で働くことになる。しかし、傷は治っていない。

「左足は貫通受傷のため、気だるい痛みが続いています。その上、立ち仕事はできず、長距離の歩行は困難です。右足も薬指切断の傷のため、冬の寒い時は、ちくちく痛みます」

戦後11年経った1956年、27歳で結婚。2人の子どもを産む。結婚後、那覇市内で建物を造り、雑貨店を経営する。

「40年ぐらい仕事を続けましたが、両足の痛みや長時間店に立てないという健康上の都合で閉店を余儀なくされました」

1986年、上原さんは、医師の診察を受け、右足の薬指の欠損と左足背から足底にぬける貫通瘢痕と診断される。その際、レントゲンを受け、右足にも左足にも砲弾の破片が残っていることがわかった。

上原さんは84歳の時の症状を陳述書に書いている。

「戦争で受けた両足の傷は、今でも鈍痛、けいれん、歩行困難で、特に建物の構造上の段差に絶えずつまずくことがあり、日常生活に大変、不便です」

1985年、上原さんは援護法に基づき、障害年金受給の申請を行う。上原さんは、沖縄戦で負傷した時、日本軍の陣地構築や炊事作業などに従事していた。沖縄戦において、軍人や軍属でなくとも、戦闘に参加したと国に認められた民間人死傷者は援護法の対象となる。ところが、上原さんの申請は却下された。

その後も再三再四、傷痍軍人事務所や県の援護局に申請を繰り返す。

「厚生労働省から申請却下の書面を受けました」

申請は結局、通らなかった。

「却下となった旨の書面は当時、腹立たしかったので、どこに置いたかわからず、現物が見つかりません」

どうして申請は却下されたのか。

「貫通した左足はその後、癒着しているので、援護法が定める等級には達しないという内容だったと思います」

上原さんの傷は、援護法が定めている障害年金の受給条件を満たすほど重いものではないということだ。

「不当な決定だと思っていました」

上原さんは陳述書の最後にこう記している。

「私は15歳の若さで理不尽な戦争で被害を受け、同年の者らとともに青春を送れなかった辛さ、腹立たしさ、悲哀、嘆き、悲しみは計り知れません。原告となって、法廷の場で自分の心の中の悲惨さを、自分の言葉で証言したいと思います。私の心情・悲しみなど理解していただき、公正な判断をくださるよう切にお願いいたします」


Return Top