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【司法が認めた沖縄戦の実態㉓】全滅した一家の訴え

【司法が認めた沖縄戦の実態㉓】全滅した一家の訴え

沖縄戦の実態を裁判所が認めた記録から明らかにするこの連載。その記録とは、生き残った県民や犠牲者の遺族などが裁判所で陳述したものだ。しかし、沖縄戦では一家全滅してしまったため、「遺族」がいないケースもある。(文箭祥人)

「平和の礎」に刻まれた名前を読み上げる

6月23日は沖縄慰霊の日。多くの遺族らが「平和の礎」に刻銘された名前に向かって手を合わせる。そして花を手向けたり、お供え物を捧げたりする。

今年はそれだけではなかった。「平和の礎」に刻まれている沖縄戦などで亡くなったすべての人々、24万1686人の名前を読み上げる集いが開かれた。

「沖縄『平和の礎』名前を読み上げる集い」は沖縄県民の有志が主催。6月12日に始まり、参加者がリレー形式で自宅やカフェ、学校などからオンラインで、あるいは沖縄県内や東京都内の会場で読み上げ、「慰霊の日」当日すべての名前を読み切った。主催者によると、保育園児から80代以上の戦争体験者らが参加。また東京や大阪など日本各地から、そして、アメリカや南米、ヨーロッパからの参加もあったという。参加者は1500人以上にのぼるという。冒頭の写真は沖縄県南風原町で行われた模様。

筆者も大阪の自宅からオンラインで参加し、大阪府の犠牲者500人の名前を読んだ。<名前を読んだ人たちは沖縄戦が始まるまでは確かに生きていたんだ>とぐっとくるものがあった。

読み上げの趣旨について、主催者の一人、町田直美さんはこういう。

「死者の声を聞こう、これが趣旨です。亡くなった人たちは『死にたくなかった。生きたかった』こう言うと思います。この声を聞けば、私たちはどうすればいいのかわかると思います」

なぜ、今年行われたのか、町田さんに尋ねた。

「2月、ロシアがウクライナに侵攻し、住民が被害を受けている映像をみて、今年やらなければならないと決めました」

一家全滅した家族の名

188の刻銘碑が並ぶ「平和の礎」。そのうちの一つの碑に家族6人の名前が刻銘されている。

仲嶺眞盛、仲嶺カメ、仲嶺真一郎、仲嶺眞二郎、仲嶺眞三郎、仲嶺キヨ

家族は一家全滅した。

原告の仲嶺眞通(まさみち)さんはこの家族に代わって原告になった。亡くなった眞盛さんは眞通さんの祖父の兄、つまり大伯父にあたる。

眞盛さんは首里市汀良(てら)町(今の那覇市汀良)に、妻カメ、長男真一郎、二男眞二郎、三男眞三郎、長女キヨと暮らしていた。22歳の長男は日本軍兵士として戦地にいた。

首里に日本軍は司令部を置き、司令部を取り囲むように宜野湾・浦添一帯に守備陣地を構築していた。一方、アメリカ軍は1945年4月1日に沖縄本島に上陸し南下。そして4月6日頃から約40日間にわたって日米両軍は激しい攻防戦を繰り広げた。それは眞盛さん一家が暮らしていた首里からそう離れていない場所だった。

「汀良町自治ふれあい館落成記念誌」に、眞盛さん家族が暮らしていた汀良での沖縄戦体験談が掲載されている。汀良には日本軍の無線受信所が設置され、軍が駐屯していた。

「あれだけ高い無線受信の塔がいくつも建っているもんですから、大きな爆弾がいくつも落ちました。そして爆弾が落ちた跡は雨期だったので、大きなクムイ(沖縄の方言で池の意味)になっていました」

別の体験者はこう書いている。

「私の家は無線の塔の近くにありました。家の後ろに防空壕を掘って、そこにいました。ある日、爆弾が落ちて壕から出ると、家が跡形もないんです」

眞通さんの陳述書に一家全滅の経緯がわずか数行書かれている。

「4月27日午前5時、戸主仲嶺眞盛60歳とカメ52歳、二男眞二郎14歳、三男眞三郎10歳、長女キヨ3歳の5人は艦砲射撃を受けて本籍地で死亡し、家屋も全焼し、土地だけが約1000坪残りました」

長男の眞一郎は1945年3月10日、フィリピン方面で戦死した。戦後、原告の眞通さんが沖縄県に問合せ、戦死者名簿に記載されていないことがわかった。

眞盛さん一家の隣に住んでいた新垣恒仁さんがつけていた日記がある。戦後に見つかったもので、そこには次のように書かれていた。

「仲嶺本家の家族は艦砲弾の直撃を受けて全滅した」

「沖縄『平和の礎』名前読み上げる集い」で眞盛さん一家6人の名前も読み上げられた。1995年に完成した「平和の礎」。戦没者の名前を刻銘するために沖縄県は県および市町村が管理・把握する名簿を整理し、さらに沖縄全域で全戦没者調査を実施した。この調査を基に一家全滅した家族の名前の調査も行った。その後、琉球新報と沖縄タイムスの地元紙に刻銘対象者全員の名前を掲載し、県民が検証できるようにした。こうした経緯がなければ、一家全滅の家族の名前は「平和の礎」に刻まれず、読み上げられることもなかっただろう。

一家全滅の家族には遺骨も戦後補償もない

戦後65年経った2010年、眞通さんは遺骨収集のボランティア団体「ガマフヤー」に心当たりがある場所を掘ってもらった。

「残念ながら、防空壕らしき跡は見つからず、遺骨収集には至りませんでした。全滅させられたうえ、遺骨さえもないというのを忍び難く思っています」

戸主であった眞盛さんが亡くなったため、眞盛さんの弟の三男が家督相続人となったが、3年後に亡くなり、原告の眞通さんが家督相続人を継いだ。

「仲嶺本家の位牌などを受け取り、沖縄の慣習に従い供養を行ってきています。譲り受けた土地を管理・処分する権限を行使して、賃貸人から土地料金を徴収し、また土地の一部を売却しました。こうして相続した土地の恩恵を受けてきました」

眞通さんはいつも気にかかることがあるという。

「艦砲弾で同時に亡くなった家族5人と戦死したとされる長男、合わせて6人は戦争被害者としての救済が、国などから何もなされていません」

眞通さんは陳述書の最後にこう裁判所に問うている。

「遺骨もなく戦災補償をも受けられず、仲嶺眞盛一家が全滅した事実は、宙に浮いたままで終わっていいものだろうか」

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