インファクト

調査報道とファクトチェックで新しいジャーナリズムを創造します

【司法が認めた沖縄戦の実態㉔】一瞬にして孤児になった神谷さん

【司法が認めた沖縄戦の実態㉔】一瞬にして孤児になった神谷さん

77回目を数えた今年の「終戦の日」。それは日本政府が日本軍の降伏を求めたポツダム宣言の受託を内外に示した日だ。しかし激しい地上戦が行われて民間人に多くの犠牲を出した沖縄においては6月23日に日本軍による組織的な戦闘が終わっている。そしてその被害の救済は終わっていない。(文箭祥人)

「南風原(はえばる)の陸軍病院だったと思いますが、その隣にある壕に入っていました」

原告の神谷洋子さんは当時8歳。33歳の母ツルとまだ歩くことができない生後8か月の弟と一緒に那覇からこの壕に避難していた。

沖縄・南部の南風原町に建てられた日本軍の陸軍病院。アメリカ軍の攻撃が始まり、病院は周辺の丘陵一帯に掘られた約30の壕に移った。軍医、看護婦、衛生兵ら約350人が兵士の治療にあたっていた。さらに、ひめゆり学徒222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。ツルは人手が足りないため、負傷した兵士に包帯を巻いたり薬を付けたりしていた。

避難していた壕に米軍の砲弾 母と弟の死

ある夜、神谷さんらが避難していた壕がアメリカ軍の攻撃を受ける。神谷さんの陳述書にこう記されている。

「壕の入口に艦砲が落ちて、ここにいた人の多くが亡くなりました」

このとき、神谷さんは壕の入口近くにいて、隣には弟を抱くツルがいた。

「相当な衝撃を感じました。爆撃で目が覚めたら、母の姿はありませんでした。壕の入口は封鎖されていました。何が何やらわからないくらいでした」

壕にいた男性が材木のようなもので、こじ開けて、入り口が開いた。神谷さんは誰かに手を捕まれ、外にでることができた。

「周囲を見ても、母と弟がいないのです。母と弟は死んだものだと思いました。壕の入口や中に、人の肉がばらばらに散っていました」

神谷さん自身も左脇腹を負傷し、誰のかわからない血を浴びた。

「何が何だかわからない状態になり、ひとりで壕から離れました」

一瞬にして、神谷さんは戦争孤児になった。

「一人になってしまい、どこに行けばいいのかわかりませんでした。水がどこにあるのか、食べ物はどこに行けばあるのか、何を食べればよいのか、わかりませんでした」

脇腹の傷にはウジがわいた。高熱も出た。

8歳の女の子が一人で戦場をさまよう

「人を探してみても生きている人は少なく、右も左も道端は死体だらけでした。転んでは置き、泣きながら歩きました。飲まず食わずだったので、水を探し求めました」

ようやく、河原にたどり着く。

「手で水をくんで飲みました。よくみると、人が浮いて生臭く、ウジが湧いていました。ウジを払いのけながら、水を飲みました」

ある夜のこと。

「水だと思って飲んだ水は、気付いたら、それは死体から流れ出てきた血だったのです」

戦場を一人で歩く。

「アメリカ軍の飛行機が飛んできた時、道は死体だらけでした。死体の中に隠れました。死体の中にいても怖くはなかったです。死体を踏んだこともありましたが、気にしなかったです」

感情が麻痺する状況に追い込まれていたのだ。そうした中、避難を続ける。

「川に橋がかかっていました。落ち着いてみると、橋ではなく死体の山でした。周りの人たちは家族で手をつなぎながら川を渡っていました。私には手を伸ばしてくれる人はいません。死体を捕まえて川を渡りました。捕まえた死体が沈むと隣の死体に捕まり、それを繰り返して、やっと渡ることができました」

あるガマの入口に隠れていた。傷口に再びウジが湧いてきて、泣きながらガマの中にいる人たちに助けを求める。

「『あんたが泣いていたら、敵にここが知られてしまう。私たちまで巻き添えを食うから出て行け』と言われ、足で蹴られました。そこは坂になっていて、ころころ転がって落ちて、起き上がることも出来ませんでした」

米軍に見つかり孤児院へ 栄養失調で生死をさまよう

その後、別の場所に隠れている時、米兵に見つかり、沖縄・中部のコザ(現在の沖縄市)にあるアメリカ軍がコザ・キャンプと呼ぶ収容所に連れて行かれる。

「収容所には人がいっぱいいました。もしかして、母と弟がいるのではないかと思い、一生懸命探しました」

収容所は、アメリカ軍に捕まり軍の管理下に置かれた一般住民を収容する施設だ。沖縄県史に1945年8月25日時点で県内につくられた21の収容所の場所と収容人数が記述されている。

「全収容人数334,429人 コザキャンプ収容人数11,762人」

21ある収容所は主に県の中北部につくられた。なぜ中北部なのか、それはアメリカ軍の戦略が関係している。アメリカ軍は、比較的平坦な沖縄県の中南部に日本本土を攻撃するための飛行場を建設したのだ。そのため収容所は中北部に集中した。

神谷さんは、コザキャンプに移動してしばらくして、子どもたちだけを乗せたトラックで、収容所のなかにあるコザ孤児院に連れて行かれる。冒頭の写真にある瓦屋根の家はコザ孤児院に使われていた家屋。地元の人に聞くと、屋根が塗り替えられただけでそれ以外は当時のままだという。神谷さんは、孤児院に入っていた時の様子をこう書いている。

「5、6人で隔離されて奥のほうに寝かされました。私は衰弱していて、もうだめかと思いました」

その時、軍医がミルクを飲ませ、脇腹の傷の治療も行い、神谷さんは回復していく。

沖縄市史にコザ孤児院について、次のように記載されている。

「南部で戦闘が終結する6月下旬になると、南部から続々と負傷者や住民が運ばれてきて、そのなかには多くの子どもたちがおり、コザキャンプ内にコザ孤児院は設立された」

コザ孤児院は1945年6月から1949年11月の4年5か月の間、開設され、1945年7月時点では収容人数は600人を超えていると、記載されている。

ひめゆり学徒だった津波古ヒサ(つはこひさ)さんが、コザ孤児院での体験談を残している。生き残ったひめゆり学徒は孤児院で戦争孤児の世話もしていたのだ。

「子どもたちは栄養失調で精気もなく泣いていました。寝かせつけて翌朝、子どもたちを見て、びっくり。きれいに拭いて寝かせたのに、髪の毛から顔、手足と体中が便にまみれているのです。急激に高カロリーなミルクを飲んだため、下痢をしているようでした。腹巻をさせたり、衛生兵に協力してもらったりして、下痢も少なくなりました。しかし、毎朝、ひとりふたりと冷たくなり、亡くなっていくのを見るのはたまらなく辛いことでした」(「生き残ったひめゆり学徒たち」 ひめゆり平和祈念資料館編)

沖縄市史に孤児院の実態に関してこう記述されている。

「孤児名簿や孤児児童の死亡記録、引き取り確認書、職員名簿などの資料が一切出てこない。沖縄の孤児院時代は多くの点で空白のなかにある」

戦後、「みなしご」「孤児院」「傷物」といじめられ

その後、神谷さんはコザ孤児院を離れる。

「元気になったころ、那覇に暮らす夫妻に養子にしてもらいました。養父母は農家だったので、その手伝いをしており、小学校しか出ていません」

朝早くから家族の食事の準備や家畜の世話、畑仕事などをこなし、それが終わらなければ学校に行かせてもらえなかったという。

「学校でも『みなしご』といじめられました。孤児院帰りなので、『孤児院が来る』、傷が残っていたため、『傷物が来る』と言われました。しかし、これは乗り越えなければいけませんでした」

養父母の手伝いで那覇の市場で野菜を売っていたとき、偶然、母ツルの弟に出会った。その後、弟夫婦の紹介で知り合った男性と22歳で結婚し、9人の子どもができる。

「戦争がなく、今でも弟が生きていたら何歳になるかを数え、母が元気だったらこんな苦労はしなかったのにと思います」

掃除機で戦場の音がよみがえる

家族ができ、生活が変わって行くなか、神谷さんは精神的な症状を訴える。

「掃除機が使えません。掃除機の音を聞くと戦場の音を思い出して怖くなります」

これだけでない。米軍基地から毎日、飛行機やオスプレイが飛ぶ、この音も怖いと言う。

79歳になった2015年、こうした症状について診断が下る。

「沖縄戦での過酷な体験が、トラウマ記憶となって今も現在進行形でマグマのように続いている。戦争PTSDです」

神谷さんの沖縄戦はいまだ、身体の中で続いている。

戦後、神谷さんは母と弟の補償を求め、援護法の申請をするため、役所を訪れる。

「いまさら何をしにきたか。戦争当時の行動経緯を知っている保証人を連れてきなさい」

母は負傷兵の看護をしていたと言うと、役所はこう返した。

「部隊名を教えなさい」

7歳で戦争孤児となった神谷さんがこれら役所の要求に応えることは到底できない。神谷さんはこう陳述書に書いている。

「私たち戦争孤児にとって、援護法の手続きの大きな壁は、とてつもない高い高い壁でした」

陳述書の最後、神谷さんはこう訴える。

この裁判に関わっている国の役人や裁判官の多くは、戦争を体験していないと思います。戦争被害者の体験談をお聞きになり、深く深くお考えいただきたいと思います。この裁判は『人の生命の重さを問う裁判』です

(つづく)

Return Top