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【司法が認めた沖縄戦の実態⑫】日本兵に追い出されて直ぐに砲弾がさく裂 母は即死

【司法が認めた沖縄戦の実態⑫】日本兵に追い出されて直ぐに砲弾がさく裂 母は即死

最高裁判所が記録として認めた沖縄戦の生存者達の陳述書。そこには、日本軍によって避難先を追い出されて死亡する沖縄県民の姿が記されている。そして戦後も終わらない苦しみも。(写真:立岩陽一郎/取材・文:文箭祥人)

「父は日本軍から追われる身になりました」

原告の當眞嗣文さんは陳述書にこう記している。父の嗣全さんは軍との約束を守らず脱走兵となった。アメリカ軍上陸後、沖縄は戦場となり、一家は家族全員で沖縄南部へ。およそ1か月間の避難生活が始まる。

父の嗣全さんはもともと農業をしていたが、沖縄に日本軍が駐留するようになり、日本軍に食料調達の仕事を強いられた。そのまま日本軍に入隊、首里の部隊に配属された。原告の當眞さんは当時7歳。母、4人の姉、2人の妹、2人の弟の10人で暮らしていた。家は父がいる部隊と同じ首里にあった。

父を兵隊にとられてから、しばらくして首里に空襲が始まり、戦争が激しくなってきた。そして1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄中部の嘉手納海岸に上陸した。艦船約1500隻、上陸部隊18万人と太平洋戦争で最大の上陸作戦であった。

上陸地点から首里までは直線距離でおよそ20キロしかない。上陸後、アメリカ軍は首里に向かって進軍を始める。一方、日本軍にとっては首里は生命線だ。首里に司令部を設置していた。司令部を取り囲むようにいくつもの陣地を構築していた。

そして45年の4月6日頃から日米の攻防戦が始まる。切り立った崖が多く、丘陵を昼はアメリカ軍が取り、夜は日本軍が奪い返すといった一進一退の戦闘が随所で続いた。

戦場近くに暮らす當眞さん家族は、アメリカ軍の攻撃により家を焼かれ、近くにある墓に逃げ込む。沖縄戦では多くの墓が住民の避難場所となっていた。沖縄の伝統的な亀甲墓は大きく頑丈なため、砲弾から人々を守る役割を担った。

そして5月6日、墓に日本兵が現れる。嗣文は陳述書にこのときの様子を書いている。

「日本軍が来て、出て行くように命令されました。母を先頭に私たちは墓から出されました」

その時、墓の近くに砲弾が落ちる。

「弾の破片が母の顔面を直撃しました。母は即死でした」。

母の死亡を叔父が首里の部隊にいた父の嗣全さんに伝え、父は墓に駆け付けた。

「父は母を埋葬するため、そして、残った子どもたちを南部に避難させるため、やってきました。軍が許可したのは2日間でした」。

墓にいたのは當眞さんら子ども9人。そのなかには生後6か月の男の子もいた。父は軍が許可した2日間が過ぎても、隊に戻らなかった。

「父は日本軍から脱走兵として扱われてしまったんです」

當眞さんら9人の子どもは父に連れられて南部へ避難を始める。脱走兵となった父は日本軍からも追われることになった。

首里司令部の前方での攻防戦を制したアメリカ軍は全面的な総攻撃を始め、首里前面まで迫った。これに対して、日本軍は5月22日、首里で「玉砕」か、南部に後退するか迷った末、南部への撤退を決めている。住民の避難地区に軍の主力が撤退することになったのだ。この決定が多くの沖縄戦の悲劇を生むことになったことはこれまでの連載でも度々書いている。當眞さん一家はすでに南部に避難を始めていた。

6月3日、當眞さん家族は、南部の島尻郡佐敷村の壕に隠れていた。佐敷町史に、このころの佐敷村の様子が次のように書かれている。

「丘陵地には、所属部隊から逃亡してきた人らが捕虜になるのを恐れて様子をうかがっていた」。

佐敷村には戦場を離れた日本兵が少なくなかった。そうしたところに當眞さんらは避難していたのだ。そして、壕に日本兵が現れる。當眞さんは陳述書に次のように書いている。

「日本兵に壕の明け渡しを強制されました」。

他の壕に移る時、艦砲弾が近くで爆発、その破片が飛んでくる。

「破片が、姉が背負っていた妹の横腹を貫通しました。その日のうちに、妹の節子は亡くなりました」。

この1か月間、アメリカ軍の空から海からの攻撃が続く中、そして日本軍からも逃げなければならなかった父。一家はその間に、母、妹と次々に亡くした。

「私たちは精根尽き果て、死ぬことを覚悟しました。どうせ、死ぬのであれば、平和なころに家族みんなで仲良く過ごした首里で死のうとなりました」。

そうして、當眞さん家族は首里に向かって、移動を始める。

「移動をしていた途中、警戒中のアメリカ兵に発見されてしまい、私たち家族は捕虜になり、収容所に入れられたのです」。

當眞さん一家が戻ろうとした首里はどうなったか。アメリカ軍は日本軍司令部が撤退した後の首里の光景を次のように記している。

「砲兵隊や艦砲射撃が首里に撃ち込んだ砲弾は推定20万発。その上、無数の空襲で1000ポンドの爆弾が投下され、さらに何千発という臼砲弾が首里に落下した。残っているのはただ二つの建物だけ、首里南西端にある中学校と首里の真ん中にある教会であった。まるで月の噴火口のような光景を呈しているところに、なんともたとえようのない腐った人間の屍臭が、いつまでも宙にただよっていた」。

脱走兵となった父の嗣全さんはアメリカ軍の捕虜となり、生き延びた。日本兵は「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓に従い、捕虜にならずに戦ったイメージがある。嗣全さんは例外だったのか。捕虜に関するアメリカ軍の資料は次の様に記している。

「捕虜の数は軍人7339人」(1945年6月3日時点)

妹の節子は日本兵から壕を追い出され、その後、艦砲射撃の破片があたり亡くなった。しかし戦争で役場が機能しておらず、出生届けが出されていなかった。戦後になって、戸籍に登録された。しかし、問題があった。當眞さんは次のように陳述書に記している。

「戸籍に記載された死亡年月日が亡くなった6月3日ではなく、沖縄戦終了後の『7月 日時刻不詳』にされてしまったんです」。

援護法では「日本軍への壕の提供」として、援護を受ける仕組みとなっているが、戸籍上の死亡年月日から援護法の申請は行われなかった。

當眞さんは陳述書にこう記す。

「節子は戦争に巻き込まれて死んだのに、そのことが理解されていないように感じます」。

當眞さんは妹と同じく、日本軍から墓を追い出されて、その後弾を受けて亡くなった母について次のように語っている。

「母の死亡について、援護法の申請をしましたが、証人が足りないとの理由で認められませんでした」。

援護法では3人以上の証人が必要とされているのだ。この要件が戦争被害の救済を妨げていることもこの連載で何度も書いてきた。書いていて理解に苦しむ。

生後6か月で、父や兄弟に連れられて避難した末弟の嗣緑は沖縄戦終了後の10月9日、亡くなった。これは戦争被害ではないのか?

當眞さんは陳述書の最後に記している。

「戦争で家族を失った私たちの苦しみ、哀しみをきちんと理解してほしい」。

(つづく)

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