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慰霊の日 75年前の沖縄は戦場だった 司法が認めた沖縄戦の実態④

慰霊の日 75年前の沖縄は戦場だった 司法が認めた沖縄戦の実態④

6月23日、沖縄は慰霊の日を迎える。これは太平洋戦争で唯一地上戦を経験した沖縄で、日本軍による組織的な戦闘行動が終わった日だ。よく、新型コロナ禍は戦争だと表現する人がいる。つまり今、我々は戦場にいるんだと。本当だろうか?75年前の沖縄は、戦場だった。その当時の生々しい記憶は裁判記録となり、それは最高裁判所によって事実と認められている。このシリーズは司法が認めた沖縄戦の実態を、その記録から描き起こす。戦場とはどういうものか?戦争とは何か?記録が我々に語ってくれる。(文箭祥人)

「きさまたちの首は1銭5厘だ」

比嘉千代子さんは当時11歳。豊見城村長堂(現在の豊見城市長堂)に父大城蒲三、母ウトの3人で暮らしていた。

沖縄の地上戦が始まる半年ほど前の1944年10月10月、沖縄本島を中心にした南西諸島全域にわたる米軍の空爆があった。この空爆で、比嘉さん家族の自宅が全焼。飼っていた山羊や馬も全部焼死した。

家を失い、近くの防空壕での生活となった。親せきの2家族、合わせて6人も一緒だった。この壕にはほかにも、近くの住民の多くが生活をしていた。

1945年3月に入った、ある日。防空壕に日本兵がやって来た。

「この壕は兵隊が使うから、民間人は出るように」

有無を言わせぬ命令だったが、壕で生活している、一人の男性が日本兵の前に出て言った。

「この壕は私たちの壕だ」

みなが男性の後ろから日本兵を見た。日本兵は男性をにらんでいった。

「何だ?」

そして吐き捨てるように言った。

「きさまたちの首は1銭5厘だ」

その言葉を今も比嘉さんは忘れられない。

日本兵は、「明日までにこの壕から出ろ」と命じて去った。このため、比嘉さん家族は他の住民たちとともに壕を出てさまようことになる。

「日本兵は悪魔だ」

この時、比嘉さんはこう思った。不思議な感情だった。敵は家を焼いたアメリカ軍ではなかったのか?でも、比嘉さんには、目の前で自分たちを追い出した日本兵こそが「悪魔」に見えた。そして、その思いは今も変わらない。

「赤紙」とされた召集令状。兵士の召集は「1銭5厘のはがき一枚でいくらでも召集できる消耗品だ」という意味で「1銭5厘」と言われていた。日本兵の言った「1銭5厘」とはそこから来るのだが、沖縄の住民の扱いは実際にはそれ以下だった。防空壕から出されるそのエピソードがそれを物語っている。

そしてアメリカ軍の砲撃が始まる。弾が飛び交う中、比嘉さん家族は避難を繰り返すことになる。

比嘉さんは防空頭巾をかぶり、リュックサックを背負った。その中に母のウトがカツオ節2本と薬と包帯を入れてくれた。父、母にもしものことが有った場合。比嘉さんが一人で生きていけるようにという配慮だった。

昼はアメリカ軍の戦闘機が絶えず飛び、空爆や機銃掃射を受ける。このため、移動は夜だった。しかし、夜も弾は絶えることなく飛んできた。暗闇の中、飛んでくる弾の音が耳をつんざく。着弾の音が自分の後ろですれば前に伏せる。前ですれば、後ろに伏せた。

通っていた国民学校辺りから先は、どこを歩いたか「記憶にない」と話した。

南部へ避難

ある日の真夜中、防衛隊と出会った。沖縄には防衛隊と呼ばれた兵士がいた。沖縄で召集された地元の人たちで、当初は物資を運んだり、陣地の構築などをしていたが、アメリカ軍上陸後はまともな武器も持たされず、戦闘に駆り出された。

防衛隊は南部の方へ移動していた。ウトが「逃げるならどこがいい?」と尋ねた。防衛隊は

「南部の新垣へ行け。防衛隊も新垣へ行く」と言った。

新垣は、比嘉さん家族らが日本兵に追い出された壕から、南へ直線距離でおよそ7キロ。それを夜の暗闇の中を歩く。

新垣では、アメリカ軍の戦闘機に気付かれないように、大きなガジュマルの木に避難した住民全員で寄り添っていた。そこへ一人のおばあが来て言った。

「ここは危ないよ、照明弾を照らされて艦砲が飛んでくる。うちの裏の小さな防空壕に入らないか」

蒲三は、「命は一つだから助けてください」と言って、おばあの申し出を受けた。比嘉さん家族3人と、一緒に避難してきた親せきの二家族の合計9人が小さな細長い防空壕に入ることができた。

9人がようやく座れるぐらい狭く、一日中、体育座りのような恰好で過ごした。

「朝になると誰かが一人ずつ、つねって回るんです。『痛い』と反応すると『あぁ、生きてるね』と確認しました」

我が子を放って逃げる父親

ある日、防空壕に砲弾が飛んできて、比嘉さんとおじの宮城長太郎が大けがを負った。長太郎は「もう自分は死ぬんだ」と一日中泣いた。蒲三が「そんなに泣くと爆弾を落とされるから、近くの小屋に連れて行こう」と、おじを小屋に運んだ。

比嘉さんは、太ももに30センチくらいの破片が刺さっていた。しかし比嘉さんは何も言わずに耐えた。泣いて小屋に運ばれるのが怖かったのかもしれない。

ウトが気付き、蒲三に言うと、父は「寝かしておけ」と言った。そして「自分たちは逃げよう」と言った。比嘉さんはその時の言葉を記憶にとどめている。父親が我が子を放って逃げようと言う。

ウトは抵抗した。

「私が母親だからこの子をどこまでも守る」

比嘉さんは父のその時の言葉を思い返し、「戦争は恐ろしい。人間が人間でなくなり、親も子もなくしてしまう」と言った。

数日後、アメリカ兵がおじの長太郎が横たわる小屋に火をつけた。おじは焼死。

おじの子どもが泣きながら、比嘉さん家族や親せき家族がいる防空壕に入ってきた。それをアメリカ兵に気付かれたのか、アメリカ兵は防空壕に手榴弾を投げ入れた。手榴弾は爆発。

その時、ウトは毛布で比嘉さんを覆った。このため、比嘉さんは被害を免れたが、ウトは腕が折れ手と腕は皮一枚でつながっている状態になるが、なんとか一命はとりとめた。

蒲三は頭に穴が開いて即死した。親せきの山川のおじとおばは娘を抱いて一緒に逃げたが、3人ともアメリカ兵に撃たれて死亡した。

この山川家は長女の幸子さんだけが生き残った。亡くなったのは二女の恵子。恵子は1944年7月ごろに生まれ、当時まだ1歳にもなっていない。恵子の名前は戸籍にはない。理由は不明だが、生まれたころは戦時体制にはいってからだと思われる。生き残った幸子さんは「妹がこの世に生まれた証しとして戸籍に載せてやりたい」と話している。

その後生き延びた比嘉さん。

比嘉さんの左の胸には防空壕で受けた砲弾の破片の断片が残っている。胸以外に10か所もの傷跡が残る。身体だけではない、精神的な被害も受けている。81歳になった比嘉さんは夜中に覚醒することが多く、目覚めた時に動悸しているという。

「夜に目覚めた時、戦場で火薬が爆発した時の音や匂いを思い出します。昼でも爆弾の音が自分に入ってきます。花火の音は、弾がバンバンするように聞こえ、怖くて、花火を見ることができません。火薬のにおいが鼻に蘇ってきます」

不眠、物音に対する過敏などが認められ、沖縄戦体験による戦争PTSDと診断されている。

日本兵に「おまえらの首は1銭5厘だ」と壕から追い出された。日本兵による壕追い出しがなければ、比嘉さんやその家族、親せき家族はみんな生きていたはずだと比嘉さんは言う。

壕を追い出された被害者は、戦後制定された援護法によって、日本軍に壕を提供した「戦闘参加者」として、援護法の適用対象となった。比嘉さんは1990年ごろ、那覇市に援護法の申請をするが、申請手続きは受け付けていないと言われ、拒否された。拒否の具体的な説明がなく、「窓口の対応はとても居丈高だった」と話している。

比嘉さんは陳述書に次の様に書いている。

「日本以外の国に民間人の戦争被害者への援助があるのに、日本は謝罪も補償もないのは不思議でならない」。

1945年6月23日、沖縄での日本軍による組織的な戦闘行動が終わる。地上戦の無かった本土の「終戦」は8月15日だが、沖縄の「終戦」はその2か月前だ。

家を焼け出された比嘉さん一家が過ごした壕があった辺り 今は農地となっている

(続く)

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