58万4086人。
これが21年4月29日現在の日本の新型コロナ累計感染者数だ。大阪で一日の感染者1000人超が常態化するなど、感染終息への道筋はなかなか見えない。実はこの累計感染者数は国際的に見たら突出しているわけではなく、人口で倍とは言え、アメリカの累計感染者数は既に3200万を超え、死者数は日本の感染者数に匹敵する。
その一方で、医療の逼迫は日本において顕著となっており、それは実は別の問題かもしれないが、今は議論をしている時ではないということなのだろう。多くの感染者が病院での治療ではなくホテルでの療養となっているのが日本の状況だ。その1人である私の友人も、ホテルで先の見えない日々を過ごしていた。(立岩陽一郎)
「無限ループ」が続いて苦しい中、友人はオンラインで医師の診察を受けたことも有ったという。
「ホテルでは、リモート診療をするための部屋も確保されていました。なかなか軽快しない人がそこに入り、備え付けのタブレットの前に座って画面越しに医師と話をして、オンラインで診察を受けるんです」
しかし治療ができるわけではない。療養施設はホテルだからだ。
入院という話にはならなかったのだろうか?
「『このまま熱が下がらないと入院になる可能性もありますね』と看護師に示唆されたことは二度ほど有りましたが、『とりあえず様子を見ましょう』とも言われました。その後、具体的な話に入る前に症状が落ち着いてきました」。
それがなぜなのかはわからないという。記憶をたどってもらうと、看護師さんの指示に従って、水をたくさん飲んだという。
「それが良かったのかもしれません。ミネラルウォーターは豊富にあって、好きなだけ取ることができた。熱が高いときは1日に3リットルくらい飲みましたね」。
「ループ」に終わりが来たのが発症9日目(ホテル入所6日目)の朝、熱が37度前後にまで下がり、頭痛も喉痛も随分と和らいだ。規定では、このまま症状が出ない状態が72時間続けば軽快したとされ、ホテルを退所してよいことになる。
「実際、発症9日目以降はずっと平熱が続き、発症12日目(入所9日目)の午前中にホテルを出ることができました」。
そのとき、医師か看護師から「あなたはまた陰性になった」と告げられたのか?
「不思議なことに、それは誰も明言してくれませんでした。ホテル退所の前日も当日の朝も、私は看護師さんに『このまま72時間平熱が続けば退所だと聞いているんですが、それは、私がまた陰性に戻ったという意味でしょうか』と尋ねたんですが、『軽快したので日常生活に戻ってよいということです』という答えが返ってくるばかりで、決して『陰性』という単語は使わなかったです」。
友人は重ねて『私は陰性に戻ったと判断されて退所になるんですよね?』と尋ねたという。
「でも、ごにゃごにゃと同じようなことを言われ、『保健所の規定によって(医師の)先生が退所してもよいと判断しています』といった返事でした。これはおそらく、『陰性』とか『陰性に戻った』などと言ってはいけないというルールができているんだろうなと思いました。私も、さんざんお世話になった看護師さんを困らせたくないのでそれ以上は尋ねていません。たぶん、『陰性とは明言できないが、あなたが事実上、陰性に戻ったことは暗黙のうちに伝えるから、そこは空気で察してほしい』というニュアンスなのだなと推測しました」。
発症から12日目(入所から9日目)の午前10時半、ホテルの1階で、部屋のカードキーとボールペンとパルスオキシメーターを返却して退所。入口の外では、警備員の制服を着た男性が退所者1人1人に敬礼をして見送ってくれ、友人はその律儀さに少し感動したという。
その後、近くの駅から公共交通機関を使って帰宅した。
「考えてみれば、公共の交通機関を使って帰ってよいとされたのは、『あなたは陰性に戻った』という意味と同じなんでしょうね。まだ陰性でなくて人に感染させる恐れがあるのなら、電車やバスに乗るのが許されるはずがありませんから」。
そう振り返って、オンライン上の彼は2缶目のノンアルビールを開けた。私は白ワインをグビリと喉に入れた。
それにしても、8泊9日のビジネスホテルでの缶詰生活だ。大変だっただろう。数少ない楽しみと思える食事はどうだったのか?
「朝食は8時、昼食は12時、夕食は18時に、弁当を1階ロビーに取りに行くんです。館内放送があって、その時だけ部屋から出られます」。
友人は最初から最後まで味覚や嗅覚に問題はなく、食欲は普通にあった。そのため弁当は大きな楽しみ・・・ではあったものの、若干、引っかかる点があったという。
「ホテルにはエレベーターが複数基ありましたが、私たち入所者が使えるのはそのうち2基のみでした。他はホテルにいる医療関係者やスタッフ用ですね。食事を取りに行くとき、皆、ほぼ同時にあちこちのフロアから一斉に2基のエレベーターに乗ってくるので、あぶれてしまうことがあるんです。待っていてやっと自分の階に止まったかと思うと、満員で乗れず、『お先にどうぞ』となることも何度もありました。できれば、使えるエレベーターの台数がもう少しあるとか、階段が使えるとかすればスムーズになって助かったのですが、入所者の行動を管理する意味で、できないのかもしれません。エレベーターに乗れても、中が密状態になっていることもありましたし・・・」。
え、感染者で密状態になっているエレベーターに乗るんですか? と失礼ながら思わず尋ねてしまった。
「まあ、乗っている全員が陽性になって入所しているという前提があり、エレベーター内に一緒にいるのもたかだか一度に数十秒とか1〜2分なので、完全な密状態でも構わないという判断なのかもしれませんが、あまり気持ちの良いものでないことは確かですね」。
今、多くのエレベーターには、密を避けて満員で乗るのはやめましょうなどと書かれているのが普通だ。
「そういう注意書きなどが有るのが普通ですが、私が入ったホテルのエレベーターには、ああいうものは掲示されていませんでした」。
状況から考えて、無理な注意書きなのかもしれない。それとも、乗るのはどうせ感染者だという合理的な判断も有ったのかもしれない。
友人にとって、弁当自体にも困った点がひとつあった。朝はパンにおかず、昼食と夕食はご飯におかずという構成。すべて同じ業者が作っているが、ハムや卵焼き、ハンバーグ、カツなどの揚げ物、焼き魚など、毎日食べても飽きが来ないようにメニューのバラエティも工夫されていた。しかし・・・。
「生野菜が足りなくて参りました。弁当自体の味は決して悪くないし、量も十分なのですが、入っている生野菜がごく少ない。衛生管理の上で大変なのはわかるのですが、このままだとビタミン不足や繊維質不足で、せっかく療養しているのに栄養面で身体がおかしくなってしまうんじゃないかと不安になりました」
そこで友人は夫人に電話を入れ、サラダの差し入れを頼んだ。
「差し入れには決まりがあって、毎日15時から17時の間に、必ず家族か知人か、『人がホテルに持ってくる』ことになっていました。郵送や宅配便では受け付けない、と。また、差し入れを受ける場合は、前日までにスタッフに対して、いつ、何の差し入れがあるかを申請する必要がありました。当初、私が『生野菜と納豆を差し入れてもらおうと思っています』と電話で申し入れると、『それはちょっと・・・』という、渋るような返事でした」。
スタッフの反応にも致し方のない面がある。差し入れの飲食物によって食中毒が発生することは、運営側にとって最も避けたい事態だ。
「飲食物は常温で保管できるものしかお受けできないんです」「生野菜や納豆は生鮮食品ですから難しい」などと難色を示すスタッフと、友人は粘り強く話し合った。
「結局、生野菜はパックされ賞味期限の明示されているサラダにすること、保冷剤を必ず添えること、締切に近い17時直前に持参すること(そうすれば18時の食事時間にピックアップするまでが1時間で済む)、ピックアップしたらすみやかに部屋の冷蔵庫に入れること、サラダも納豆も賞味期限は厳守して食べること・・・などを約束して、ようやく了解してもらえました。
当初は、役所的な四角四面のルール運用によって、生野菜の差し入れは却下されるかと覚悟していたのですが、フレキシブルに対応してくれてスタッフの方には感謝しています。まあ、電話で私が『弁当では野菜が全然足りなくて・・・』と訴えたのがよっぽどつらそうに聞こえたのかもしれませんが」。
しかし、差し入れにいろいろ制約が有るとは、拘置所みたいですね? これも、思わず言ってしまった。友人は「まだ過去事例が多くない問題なので、用心に用心を重ねるのは仕方がないんでしょうね」と笑った。
弁当を取りに行く時に、入所者同士がエレベーターやロビーで会話をすることは無いのだろうか?
「まったく無いですね。私もそうでしたが、誰も何も話していなかったです。そもそも知り合いなどいませんし」と友人は言ってから、「ああ、そういえば・・・」と言葉をつないだ。
「皆、朝昼晩の1日3回、ロビーで弁当や飲み物をピックアップしてから、部屋に戻るエレベーターを待つんですけど、誰も何も喋らない沈黙の中で、時折声を張り上げている者がたった1人いるんです」
1人だけ声を張り上げている者? スタッフだろうか。
「いえ、1人というより1台ですね。ロボホン君です。あの、ペッパー君を小さくした感じの・・・」
ロボホンといえば、シャープが開発した、身長20cmくらいのモバイルロボットだ。最近あまり見かけなくなっているような印象があるが、新型コロナ感染者の療養のサポートで頑張っていたのか。
「そのロボホン君が、エレベーターホールの片隅のテーブルに置かれて、ときどき目の間にいる人を検知すると、『みんな、わからないことがあったら何でも僕に質問してね! 答えるよ!』などと声を出しているんです。しかし、ロボホン君に何か質問している人は、私が見た限りまったくいませんでした。話しかける人も、ロボホン君の下の入力画面に何か書き入れている人も・・・」
誰も反応しない中で声を張り上げるロボットとは、見ていてむなしくなりませんか?
「ロボホン君も延々と無視されてちょっと気の毒な気がしました(笑)。でも、彼にあえて尋ねたいことなど別にないんです。わからないことがあれば、部屋の電話でスタッフや看護師に質問するのがいちばん手っ取り早くて効率的なんですから」。
なぜロボホン君がいるんですかね?
「わかりません。ホテルによってはペッパー君がいるところもあると聞きました」。
人間とコミュニケーションできるロボットを置くということが、お役所的な一律の決まりになっているのかもしれない。入所者の質問に答えるロボットがあるとして、万全の準備を整えているというエクスキューズにしたいのか。あるいは、療養者の癒しになるという配慮もあるのか。
ただし、それは、残念ながら療養生活の助けや癒しにはならなかったようだ。少なくとも友人の療養先だったホテルでは。
私のワインボトルはほぼ空になっていた。そろそろお開きにと考えて、ふと、大事な話を聴いていなかったことに気づいた。
今回感染したのは変異株だったんですか? 友人は困惑げに答えた。
「実は、それがわからないんです。私も気になって、ホテル入所中に何度か『私が感染したのは、最近急速に広がっているという変異株なんでしょうか』と看護師さんに尋ねたんですけど、『私たちは把握していません』と言われました」。
え? 変異ウイルスかどうかわかっていないということ?
「たぶん、東京都は隔離療養させて経過を見るだけで、個々の入所者のウイルスについては本当に何も把握していないんだと思うんですよ。そこで、『最初にPCR検査をしてくれた区の保健所で把握しているのでしょうか』と聞くと、『さあ、どうでしょうか・・・』といった、どうもはっきりしない返事でした。何度か重ねて尋ねましたが、要は、『あなたの感染したウイルスが変異株かどうか、把握しているとしたら保健所だが、把握しているかどうかわからないし、保健所に問い合わせても教えてくれるかどうかはわからない』ということのようでした。
ただ、ある看護師さんがちょっと漏らした言葉が印象に残っています。『今、全国各地でどれだけの変異株が出たとか、感染者のうち何割が変異株だったといった報道がされていますが、すべてのPCR検査結果がそれに反映されているかどうかはわかりません。今、検査の現場は手が回らなくて一杯一杯ですから、結果の一部のみが取り上げられた数字かもしれないんです』と」。
保健所には問い合わせましたか?
「まだ問い合わせていません。ホテルを出たらホッとして力が抜けてしまって、自分のウイルスの正体を追求する気が少し薄れてしまったんですね。言い訳ではないのですが、教えてもらえなさそうだなと諦めかけている部分もあります。
ただ、保健所の指示通りにホテルで療養生活をして、やがて軽快して出てくるまでの過程においては、自分が感染していたウイルスが変異型かどうか、教えてもらえることはまったくありません。ぜひ知りたいところなのですが・・・」
自分がどんなウイルスにかかっているか知らされることはない──。この証言は、私には、この国のコロナ対策の危うさを象徴している事実に感じられた。友人だけでなく、毎日ホテルに送られ隔離療養している多くの感染者も教えてもらっていないのだろう。
彼は不思議な対応に感じられたというし、私も同じ印象を持った。
こうなったら、「何でも僕に質問してね」と話しかけてきたロボホン君に、「私が感染したウイルスは変異株なの?」と尋ねるしかないかもしれない。何も聞かないときよりも、気まずい沈黙が流れそうな気もするが・・・。
(「友人が感染した」はこれでおわりです。【コロナの時代】は続きます)