テレビや新聞で報じられるウクライナ戦争は、ロシア軍が攻勢に転じたとか、ウクライナ軍が押し返したなど多くが戦況だ。しかし前線に投入され疲弊している兵士の様子はなかなか伝えられない。新田義貴は、報じられない戦争の現場に入っていく。それは必ずしも「前線」ではない。そして、そこには兵士の言葉に耳を傾ける日本人牧師がいた。(取材・撮影/新田義貴)
限りなく続く大地の風景が車窓を流れていく。ウクライナ東部での取材を終えた僕はいったんキーウに戻り、高速バスでウクライナ南部の港湾都市オデーサに向かった。2023年夏にも取材に訪れた日本人牧師を再訪するためだ。
2月28日午後、バスはオデーサに到着した。去年も宿泊した港のすぐそばのホテルにチェックインする。船越真人牧師に連絡を入れ、翌日の訪問の約束をした。夕食までの時間、ホテルのまわりを散歩することにした。前年に来た時は近づくことすらできなかった“ポチョムキンの階段”は、階段の上から見下ろすことができるようになっていた。
旧ソ連のセルゲイ・エイゼンシュテイン監督が1925年に製作した映画史上不朽の名作、「戦艦ポチョムキン」に登場する世界的に有名な階段だ。ただし、いまだ階段そのものには立ち入ることはできず撮影も禁止されている。ロシア軍によるウクライナ侵攻後、この階段は軍事施設として使用されているのだという。
階段を後にし、すぐ近くにあるオデーサ国立オペラ・バレエ劇場を訪れた。19世紀に建てられたヨーロッパでも有数の美しい劇場だ。驚いたことにバレエの公演が行われていた。ちょうど17時から古代インドを舞台にしたバレエ「ラ・バヤデール」の上演があるという。2階のボックス席でチケットは350フリブニャ、1400円ほど。日本ではとても考えられない値段だ。手持ちの紙幣を窓口で払って中に入った。
客席は半分ほどの入りだろうか。観光客らしき人々の姿もある。取材の合間ではあったが、ウクライナで初めてのバレエ観賞を堪能することができた。一方で、今この瞬間もこの国が戦時下であることは紛れもない事実だ。戦時下のバレエ鑑賞・・・不思議な感覚だった。
翌日、船越牧師が運営するホーリートリニティ教会を訪れた。2度目の訪問だ。兵庫県出身の船越牧師は妻の美貴さんと共にこの地で26年間、キリスト教の宣教活動を続けている。船越牧師については『新田義貴のウクライナ取材メモ⑧「ウクライナの日本人牧師」』で書いているが、以前に訪ねた時は米国の神学校に留学中だった息子の勇貴さんも今は帰国し、家族3人で教会を運営している。ロシアとの戦争が始まって以降は、戦闘地域に赴いての住民支援、避難民支援などを続けてきた。
今回の再訪の目的は、彼らのもうひつの重要な活動を取材することだった。それは、戦場から帰還した兵士たちの心のケアである。この日の夜、早速船越牧師たちの慰問活動に同行させてもらえることになった。
16時半に車で教会を出発する。船越牧師と息子の勇貴さん、教会のメンバー8名ほどで2台の車に分乗し兵士たちが収容されている病院に向かう。1時間ほど走り辺りが真っ暗になるころに病院に到着。2つのグループに分かれて別々の病棟に向かった。
僕は船越牧師のグループに同行して撮影を行う。牧師と相談した結果、兵士たちを刺激しないように通常の大きなカメラではなくiPhoneで撮影することに決めた。病棟に到着するとメンバーは談話室に椅子を並べ、コーヒーとお菓子を準備する。やがて30代から40代と思しき7名ほどの兵士が席についた。軍服を着ている者もいる。こここで兵士たちとコーヒーを飲みながら会話を行い、カウンセリングを進めていく。参加するかしないかは兵士たちの自由だ。司会は教会員のアントンだ。彼は少年時代から重度の麻薬中毒になり、船越牧師の教会に設けられたリハビリ施設で回復し人生を取り戻した。今や船越牧師の片腕となって教会の活動を支えている。
「皆さんの働きに敬意を表します。国を守ってくれてありがとうございます。私たちは皆さんと共にあります。皆さんの力になりたいのです。」
アントンはまず兵士たちに感謝の言葉を伝え、何か心につかえているものがあれば話してほしいと呼びかける。
ひとりの兵士が話し出した。
「軍は私を奴隷に変えました。冬の寒いなか、隠れる場所もなく敵の偵察ドローンが常に飛んでいました。激しい砲撃にさらされ塹壕を掘ることすらできませんでした。とにかく兵士の数が足りませんでした。」
やがてこの兵士の隣に船越牧師が座り静かに耳を傾ける。兵士は堰を切ったように戦場での体験を船越に向かって話し続ける。
船越牧師は兵士の背中を優しくさすりながら、穏やかに声をかける。
「牧師として、ひとりの人間として私にできることには限りがあります。それでもあなたのために祈ることはできます。」
カウンセリング終了後、船越牧師とアントンは姿を現さなかった兵士たちにお菓子のプレゼントを届けるために部屋をひとつひとつまわった。ある2人の兵士の部屋を訪ねたときのことだ。兵士たちは船越牧師たちの活動に疑問を投げかけた。
「僕らから話を聞いてどうしたいんだ?戦場を知らないのに何が分かるんだ?知りたければ自分で行って見てくればいい。あなたが僕らから聞き出そうとしている記憶は開けてはいけない封印なんだ。聞かないほうがいい。苦しんだからこそここにいるんだ」
船越は静かに兵士たちの話に耳を傾け、それでもいつか話してほしいと告げ部屋を後にした。
「地獄のような光景を見てきた彼らに私たちが軽々しく励ましの言葉をかけることはできません。ただ彼らが封印している記憶や感情はいつか表現して吐き出さないと、本当の意味での癒しは起こらないのです。これだけは確信しています。ですから彼らが話をしてくれる時まで、私たちは待ち続けます。」
戦場で壮絶な体験をし、苦しさを紛らわすためにアルコールや麻薬に慰めを求めやがて溺れていく兵士が爆発的に増えることは今から予想されているという。たとえ戦争が終わったとしても、兵士たちの心の傷=PTSDの問題はウクライナ社会に重くのしかかってくるだろう。教会を拠点に長年にわたりアルコール・麻薬依存症と向き合ってきた船越牧師にとって、これからがまさに宗教家としての正念場となる。
(つづく)