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ウクライナの日本人牧師【新田義貴のウクライナ取材メモ⑧ 】

ウクライナの日本人牧師【新田義貴のウクライナ取材メモ⑧ 】

戦乱のウクライナで避難者らを支援する日本人牧師に出会った新田義貴。牧師は危険をいとわずに支援物資を現地の人々に配る取り組みを続けていた。牧師の取り組みと思いを取材した。(取材/写真:新田義貴)

6月28日、カホフカダム破壊による洪水被害の取材を続けていた僕は、被災者救援の拠点となっているキリスト教会を訪れた。ヘルソン郊外にあるチェルノバイフカ教会だ。そこでひとりの日本人と出会った。ヘルソンから200キロほど西にある港湾都市オデッサ(=オデーサ)を拠点に、25年間宣教活動を続けている船越真人牧師である。この日はオデッサから飲料水などの支援物資を運んできていた。妻の美貴、ウクライナで生まれた息子の勇貴、教会のウクライナ人信者も同行している。3人はチェルノバイフカ教会のスタッフと合流すると、手慣れた様子で防弾ベストとヘルメットを着用。船越は自ら運転する車に家族を乗せヘルソンに向かった。目的地はドニプロ川沿いにあるアントニフカ教会だという。

防弾装備を身にまとった船越牧師

驚いたのはその場が激しい戦闘の繰り広げられている場所だったからだ。僕も取材に行ったが、長居は避けた。砲声が近くに聞こえ、極めて危険なことがわかったからだ。ジャーナリストである僕らでも尻込みする場所を、キリスト教の牧師がボランティアで訪れるというのだ。しかし3人は向かう。ならば、と僕も覚悟を決めて同行することにした。

橋から2.5キロの地点にあるアントニフカ教会に到着すると、信者たちが出迎えた。船越たちは言葉少なに手際よく支援物資を降ろしていく。その間も砲撃音が鳴り響いている。長居は禁物だ。物資の搬入を終えると全員が輪になり、船越がロシア語で短いお祈りをする。最後は教会の信者たちと熱い抱擁を交わして帰路についた。

砲声が轟くドニプロ川沿い

なぜそこまで危険を冒してまで被災者支援を行うのか。船越に聞いた。

「この教会の牧師家族はロシア軍占領下も解放後もずっとこの場所に住んで地域の信者たちを支えています。私たちは時たまやって来てわずかな支援物資を手渡すことしかできません。それでもただ遠くから見守っているだけではなく、彼らを励まし、常に彼らと共に歩んでいるのだという気持ちを表したいと思い、危険を承知で来ているのです。」

船越はプロテスタントのバプテスト派の牧師で、実は僕も同じ宗派のクリスチャンだ。彼の活動に強い興味を持った僕は急遽予定を変更して、船越が拠点としているオデッサを訪ねてみることにした。

7月1日、宿泊していたミコライウを出発しオデッサに向かう。途中、息を飲むほど美しいひまわり畑が続く。戦争に引き裂かれた夫婦を描いたイタリア映画「ひまわり」(1970年公開)は、その哀愁あふれる主題歌とともに多くの日本人の心にも刻み込まれている。この映画に登場するひまわり畑はソ連時代のウクライナにあったとされる。いつかウクライナを訪れひまわり畑を見ることを夢見ていたが、まさか戦時下でその夢がかなうとは想像もしていなかった。目の前の光景に見とれつつも、複雑な思いが心をよぎる。

絵のような風景が広がる

お昼前にオデッサに到着。さっそく船越牧師の聖トリニティ教会を訪ねた。そもそもなぜ船越はウクライナに来たのか、訊ねてみる。船越も妻の美貴も日本のクリスチャンホームに育ち、共に幼少期は兵庫県の加古川バプテスト教会に通った。10代の頃から海外宣教に興味を持ち、婚約後に米国の神学校に留学。1996年、その神学校のプログラムでたまたま派遣されたのがウクライナのオデッサだった。ソ連崩壊後、独立したウクライナでは激変する社会構造や価値観の中で、人々がアイデンティティを見失い苦しんでいたという。しかし多くの人々が信仰するウクライナ正教やロシア正教はそうした苦しみにじゅうぶん答えることができずにいた。その隙間を埋めようと、船越たちが所属するバプテスト教会はウクライナをはじめとする旧ソ連諸国での宣教に力を入れていた。やがて船越はこの地で本格的にキリストの教えを述べ伝えることを決意。1998年にオデッサに移り住み、以来25年間現地の人々と共に歩んできた。

午後、船越と息子の勇貴に町を案内してもらう。最初に訪れたのは無残にも破壊された建物だった。オデッサはロシア軍の侵攻直後から激しい爆撃を受け、今も続いているという。大破した建物や焼け焦げた車が攻撃のすさまじさを物語る。一方で、オデッサの町にはこれまで訪れたウクライナのどの町とも違う独特な開放感が漂っているように感じた。

「黒海の真珠」と呼ばれる美しい港湾都市であるオデッサ。ここはウクライナ最大の貿易港を持つが、現在ここから穀物の輸出ができなくなっている。このために世界的な食糧価格の高騰が起きていることは世界を揺るがす問題となっている。古くから天然の良港だったオデッサは、歴史的にロシアの影響が色濃い町でもある。冬でも凍らない「不凍港」を熱望していた帝政ロシアはこの地域に注目し、18世紀末のエカテリーナ2世の時代に町の建設が行われ大きく発展した。こうした歴史から多くの人々がロシア語を話し、戦争前までは親ロシア的な考えを持つ人も多かったという。ところがロシア軍の侵攻後、そうした状況は大きく変わりつつある。長いあいだ町のシンボルであったエカテリーナ2世像は戦争が始まってほどなく撤去され、現在そこにはウクライナの国旗が掲げられていた。ソ連映画の巨匠エイゼンシュタインの名作「戦艦ポチョムキン」の舞台となった有名な階段も、現在ウクライナ軍によって封鎖され撮影は許可されなかった。

エカテリーナ2世像のあった台座には今はウクライナの国旗がはためく

 翌日、船越の教会の日曜礼拝を訪れた。礼拝が始まる30分以上前から、船越は教会の入り口で信者ひとりひとりを出迎え言葉をかける。家族のような温かな教会の雰囲気が伝わってくる。戦争前は毎週80人ほどの信者が出席していたというが、現在はウクライナ東部から避難してきた人々も受け入れ、130名ほどの大きな礼拝となっていた。東部もまたロシア語を母語とする人が多いため、キーウではなくロシア語話者が多いオデッサにあえて避難する人も多いのだという。この25年、船越はこの教会でアルコールや麻薬の依存症に苦しむ人々を受け入れ、治療と共に社会復帰を支援する活動を続けてきた。かつて麻薬依存で教会が受け入れたアントンはその後回復し結婚。子供にも恵まれ、今や船越の右腕として教会主催の様々な支援活動を支えている。こうした地道な活動がやがて実を結び、教会は地域の人々に大きな信頼を得るようになっていった。ロシア軍の侵攻後はHOPEプロジェクトと称し、戦闘地域の住民支援、避難民支援、兵士への防弾ベスト支援、子供のためのサマーキャンプなど様々なプログラムを続けてきた。この日も教会では礼拝後に避難民となった信者たちに水や食料、医薬品などを配布した。

船越牧師と家族

去り際に船越に将来の目標について訊ねると、真っ直ぐに前を見つめこう話した。

「ロシアの人たちも、自分の国が始めたこの戦争に深く苦しんでいるはずです。そうした人々を神の愛で救うためにも、いつかロシアに行って宣教したいと思います。そのためにもこの戦争が一刻も早く終わり、ウクライナの人々が苦しみから解放されることを願っています。」

船越は戦争の一刻も早い終結を願うとともに、すでに戦争が終わった後のことも見据えていた。遠い異国の地で四半世紀にわたり宣教活動を続けてきたひとりの日本人牧師の、揺るぎない強い信念を感じた。
(つづく)

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