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【新田義貴のウクライナ取材メモ⑩ クラスター爆弾の戦慄】

【新田義貴のウクライナ取材メモ⑩ クラスター爆弾の戦慄】

戦争が続くウクライナを取材する新田義貴のメモ。新田は一般人を殺傷することで知られるクラスター爆弾を見せられる。戦乱に巻き込まれた人々の声を記録する連載の最終回。それは新田のある言葉で終わった。(取材・文/新田義貴)

7月8日朝、滞在していたスロビアンスクを車で出発し、東へ20分ほどの距離にあるリマンという町に向かう。前日、ウクライナ軍の広報官から、対空砲部隊や野戦病院の取材の許可が出たのだ。その待ち合わせ場所がリマンの町の中だった。約束の午前10時半に間に合うように車で向かっていると、突然広報官からスマホにメッセージが届いた。

「町の中に入らないで!いまリマンはロシア軍の攻撃を受けている!」

30分ほど町の入り口で待機していると、広報官から再びメッセージがあり、町の中に入ってくるように指示があった。中心部の広場で広報官が出迎えてくれた。セルゲイと名乗った。さっそく攻撃を受けたという現場へ向かう。そこは何の変哲もない住宅街の通りだった。まだ爆撃から1時間も経っておらず、ウクライナ軍の検査官が被害の調査を進めていた。現場には数日前に僕らがインタビューをしたリマンの市長も駆け付け、不安そうな面持ちで検査官の聞き取りに答えている。

「見てくれ」

検査官が手に持った爆弾の破片を僕の前に示した。それは何枚もの羽根がついたクラスター爆弾だった。クラスター爆弾は、ひとつの爆弾から多数の小型爆弾が飛び散る兵器だ。そのため、住宅街などで使用すれば広範囲で民間人を殺傷することが可能になる。また不発のまま地上に残されることも多く、それを拾った子供が犠牲になることも。これまで世界各地で多くの民間人が紛争後にこの爆弾で命を落としている。こうしたことからクラスター爆弾は非人道的な兵器とされ、使用や製造を禁止する条約が2010年に発効し100ヵ国以上が加わっている。

クラスター爆弾

周辺の建物に大きな破壊のあとは見られないが、通りのあちらこちらに血だまりが残っている。

「この攻撃で住民8名が死亡、13名が負傷した」

セルゲイが辛そうな表情で説明した。道端に置かれた台の横に、ミルクやりんごが散乱していた。そのそばには血痕が広がっている。

「路上販売の女性がこの場所で2名亡くなった」

犠牲になった住民の2人は、ウクライナでよく見かける路上販売をしていた最中だったようだ。すぐ近くに住む年配の男性に話を聞いた。

「家の中にいました。最初にすごい大きな爆発音が聞こえ、その後も4発続きました。しばらくして砲撃が止んだので外に出てみると、道端で女性が2人倒れていました。今日は土曜日なので、買い物客に生鮮食品を売りに来ていたのでしょう。あのおばさんたちがいったいなぜ死ななければならないのでしょうか?」

破壊された車

僕も宿泊しているスロビアンスクでこうした路上販売のおばさんたちをよく見かけた。戦争の中でもみな生活のためにたくましく商売をしていた。純粋で働き者の女性たち。彼女たちの人生が一瞬にして断ち切られたことを思うと、なんともやるせない気持ちになった。

セルゲイも怒りを隠さない。

「ロシア軍はBM-21グラート自走多連装ロケット砲でクラスター爆弾を住宅地に撃ち込んで民間人を殺した。これは明らかな戦争犯罪だ。」

実はまさにこの日は、米国政府がウクライナ軍にクラスター爆弾を供与すると発表したタイミングだった。米国もロシアもウクライナも、クラスター爆弾禁止条約には加盟していない。そしてこの後まもなく、ウクライナ軍もロシア軍に対して米国から供与されたクラスター爆弾を使用したことが分かっている。殺戮の連鎖が止まらない。

取材の最後に、セルゲイの案内でリマン郊外の軍の野戦病院を訪れた。民間の建物を簡易的な病院に仕立てた施設で、負傷した兵士たちが庭でタバコを吸っている。ここには最前線で戦う兵士が毎日のように運び込まれてくるという。中に入るとちょうど負傷した兵士の外科手術が行われていた。暗くてよく見えないが腕にメスを入れているようだ。その後の処置を考えることはできなかった。

その向かいには病室があった。10名ほどの兵士がベッドに横たわっている。冒頭の写真はその時のものだ。どの兵士も目がうつろで生気を感じない。けがの具合が深刻なのか、もしくは前線で地獄を見たのか。実は、ウクライナ軍は正確な犠牲者数を発表していないが、およそ7万人の兵士が死亡し10万人以上が負傷したとの推計もある。反転攻勢が伝えられているウクライナ軍だが、兵士の犠牲も深刻であることは間違いない。

この日の午後、スロビアンスク駅から列車に乗りドネツク州を後にした。3週間にわたった2度目のウクライナ取材は、泥沼化する戦争の実態を確認する作業でもあった。そしてこの戦争はまだ当分終わる気配もない。イスラエル情勢が連日報じられる中で、当初は高かった国際世論の関心も下がり続けている。

ドニプロ川に沈む美しい夕日を車窓から眺めながら僕の頭に去来する言葉は一つだった。

「また近いうちにこの国に戻ってこよう」

(おわり)

【編集長後記】新田義貴さんの「ウクライナ取材メモ」はこれで終了します。お読みいただき有難うございます。新田さんは地道に現地の人々の言葉を拾い集める取材を続けました。それがこの連載です。彼はまたウクライナに行くでしょう。しかしその時は、平和を取り戻したウクライナの人びとの言葉を拾い集めて欲しい。それを切に願います。

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