ウクライナでの戦争は続く。新田義貴は現地で救援活動をする日本人のジャーナリストと遭遇。その活動に同行して更に戦争の現実に迫っていく。(写真・文/新田義貴)
7月2日午後2時、オデッサでの取材を終えいよいよ最終目的地のウクライナ東部に向かう。写真家の尾崎孝史さんが運転するスズキの4WDで広大な平原を走ること8時間、夜10時過ぎにようやくウクライナ南東部の拠点都市、ザポリージャに到着した。食事はガソリンスタンドで買ったホットドックで済ます。この日は尾崎さんがザポリージャに借りているアパートに泊めて頂く。
尾崎さんはもともとテレビドキュメンタリーの編集マンとして活躍されていた方だ。映像編集の仕事の一方で、休暇を利用しては中東や東欧などを訪れ写真を撮り続けてきた。去年ロシアがウクライナに軍事侵攻した時もいち早く現場に駆け付けた。僕も去年3月初旬にキーウの街角で尾崎さんにばったり遭遇していた。
翌朝、まずは尾崎さんが所属するボランティア団体「マリウポリ聖職者大隊」の本部を訪問する。この団体は、ロシア軍に占領されたマリウポリから避難してきたキリスト教の牧師たちが結成し、前線で戦う兵士や戦闘地域に残る住民たちへの支援を続けている。尾崎さんは同団体の設立者ゲナディ・モクネンコ牧師に去年4月に出会い、その豪放な人柄と情熱に惚れ込み、今や正式メンバーとなって活動を手伝いながら写真を撮り続けている。
ゲナディ牧師は言う。
「私は一般のロシア人を憎んではいません。ただし、彼らが私たちの故郷を侵略するのであれば、それは撃退しなければなりません。私はキリスト教の牧師ですが、ただ祈るだけではなく、信念に基づいて行動しているのです。」
団体の倉庫には、主に欧米の支援者からの資金で調達した食糧や薬、衣料などが大量に備蓄されていた。尾崎さんは支援物資の発電機を車に乗せると早速、ロシアと国境を接するウクライナ東部ドネツク州に向け車を出発させた。またもや8時間ほどのドライブを経て、暗くなるころにドネツク州の町スロビアンスクに入る。スロビアンスクは激戦地バフムトから30キロの町だ。尾崎さんはこの町にもアパートを借りていて、ここを拠点に1週間ほど最前線を取材させて頂くことになった。
ウクライナ東部ドネツク州。ここにはロシア語を話す親ロシア派住民が多く暮らし、分離独立を目指す親ロシア派武装勢力とウクライナ軍との間で2014年から戦闘が続いてきた。22年2月からのロシア軍の侵攻では戦闘の最前線となり、全ての住民に退避命令が出ている。
7月4日、マリウポリ聖職者大隊がこの町に置いている事務所を訪れる。ここで事務所のメンバーと合流し支援現場に向かう。途中、戦車が何台もトレーラに乗せられ前線へ向かう光景を見た。それは形状から、恐らくウクライナ政府が強く要望していたドイツ製のレオパルドⅡだろう(冒頭の写真)。ウクライナ軍による反転攻勢が始まり、欧米諸国からの軍事支援も本格化しているようだ。
まず訪れたのは町の郊外にある民家だった。住民が避難した民家をウクライナ軍が借り上げ、兵舎として使用しているという。宿泊している兵士の多くがバフムトの最前線でロシア軍と戦っている。尾崎さんは発電機を届け、兵士から感謝の言葉が述べられる。兵士の生活環境を少しでも整えることは、ボランティア団体の重要な使命のようだ。ボランティア団体が支える軍隊。不思議な感じもするが、それがウクライナ戦争の現実だ。
翌日は今も前線の町や村に残る住民の支援に向かう。途中、山を越える峠で車を停め全員が防弾ベストを着用する。ここから先はロシア軍の砲撃が激しく、安全管理を徹底しながらの取材活動が必須となる。出発から2時間、シベルスクという町に入る。町はたびたびロシア軍による攻撃にさらされ、多くの家や建物が砲撃で破壊されている。電気も水道もガスも止まったままだという。あるアパートの前に車を停めると、人々が集まってきた。驚いたことにそのほとんどがお年寄りだ。尾崎さんらボランティアは今年初めからこの町を訪れ住民への支援を続けてきた。この日も食料や水を配っていると、顔なじみになった女性が訴えてきた。
「ボランティアの皆さんが食料を届けてくれるので助かっています。ただ、水が不足して困っています。」
お年寄りの一部はロシア軍の砲撃を恐れて今も地下のシェルターで暮らしていた。退避命令が出る中、なぜ彼らは避難しないのか?その疑問がふと頭をよぎったが、考えて見れば当然かもしれない。多くは高齢のために体が思うように動かせず遠方への避難が難しい人たちだからだ。
一方で、この地域には自分のアイデンティティがロシアにあると信じる「ロシア系」あるいは「親ロシア派」と呼ばれる住民も少なからずいる。それが事態を複雑にしている。彼らの一部はプーチン大統領による軍事作戦を歓迎しているとも聞く。もちろん、ウクライナ統治下の町で住民にカメラを向けてもそうした声を聞くことはなかったが、一部のお年寄りはソ連時代への郷愁をはっきりと口にした。
「私はロシアについてコメントする立場にありません。ただ、かつて私たちはひとつの国でした。決して悪い時代ではありませんでした。私たちはいつからこのように殺しあうようになってしまったのでしょうか?私は昔も今もロシアを愛しています。」
多くの親ロシア派と呼ばれる住民は、ロシア軍と共に占領下のルハンシク州やロシア本国に逃げていったとみられている。主義主張は違えども、彼らもまた故郷を失った避難民だといえる。町に残るお年寄りたちの疲れ切った顔を見ながら、領土をめぐる戦争が人々を引き裂く理不尽な世界の一端を垣間見た気がした。
(つづく)