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【新田義貴のウクライナ取材報告⑦】空爆下の首都で生きる人々

【新田義貴のウクライナ取材報告⑦】空爆下の首都で生きる人々

3月中旬、キーウの町は連日のようにロシア軍によるミサイル攻撃にさらされていた・・・新田義貴が伝えるウクライナの首都の状況(取材・写真/新田義貴)

15日朝、僕らは前夜に攻撃を受けたという民間のアパートを訪ねた。路上にはミサイルが着弾した跡と見られる大きな穴が開き、爆風でアパートの多くの家の窓ガラスが割れている。この爆風で通行人ひとりが死亡し、少なくとも6名がけがをしたという。

建物の前には無残に破壊された路面電車の車両が置かれていた。この路面電車は走っていたのではなく、市街戦に備えるためのバリケードとして置かれていたのだという。住民の若い女性に話を聞いた。

「私は職場にいましたが家にいた夫は耳が聞こえなくなりました。ロシア軍はキーウには侵攻できません。私たちの勇敢な兵士が守ってくれるでしょう。」

「ロシア軍はキーウには侵攻できません」

前日に被害を受けた別のアパートを訪ねると、すでに住民たちが後片付けを行っていた。まだ電気もガスも復旧していないが、破壊された部屋に住んでいるという。アパートの前でベニヤ板を使って応急の窓枠を作っている男性は事も無げに語る。

「他に行くところもないのでここで暮らすしかない。仕方ないよ。」

戦争という極限状況の中でも前を向いて生きるウクライナの人々のたくましさを見た思いがした。

ここで暮らす男性

キーウのアパートの多くには地下シェルターが設置されている。旧ソ連時代に核戦争に備えて作られたもので、極めて頑丈だが決して環境はよくない。夜、僕らが宿泊させてもらっているイヴァンのアパートの地下シェルターを訪ねた。ここは団地にあるシェルターの中でも最も環境が良く、住民たちから「ハイアット」と呼ばれているという。中に入るといくつもの部屋に分かれ、キッチンやトイレもある。トイレのないシェルターも多いので、それに比べれば居住環境は少しはましに見える。

この夜は10家族ほどが滞在していた。多くは子供やお年寄りを抱える家族だ。子供はスマホでゲームをしたり鬼ごっこをしたり思い思いに過ごしている。学校も行けず外出も制限されているなかで、シェルターで友達と遊ぶ時間はひとときの楽しみなのかもしれない。ウクライナ国旗を掲げる家族も多い。彼らの集合写真を撮影していると、皆が口々に叫んだ。

「ウクライナに栄光あれ!」

取材を終えると、僕らはイヴァンの部屋に戻った。渡航前、キーウではおそらく地下シェルターに滞在しながら取材をすることになるだろうと予想していた。そのために荷物は必要なものだけでなるべく軽くしてきた。ところがイヴァンはシェルターには行かずに毎晩自分の部屋で眠る。戦争当初は毎晩行っていたそうだが、やがて行かなくなったという。やはりシェルターの居住環境は快適とは言えず、翌日のことを考えれば体力温存のために自分のベッドで眠るにこしたことはない。ミサイルがアパートに落ちる確率もゼロではないが、高いとはいえない。毎日5~6回空襲警報が鳴り、そのために避難するがミサイルが飛んでこないことも多い。地震と同じでやはり空爆も慣れてしまうものなのだろう。

シェルターでウクライナの国旗を掲げる家族

翌日夕方、キーウ市内で撮影していると遠くに黒い煙が上がっているのが見えた。急いで車で急行し20分後に現場に到着した。真っ暗な空に赤い炎と煙がもうもうと上がっている。この地域は倉庫街だという。熱風と有毒ガスで危険なため近づいての撮影は10分ほどで切り上げる。外出禁止令が始まる20時が迫っており、急いで帰宅しなければならない。

ロシア軍は民間の施設は狙わないと公言しているが、被害が出ているのは民間施設のほうが多いように思える。イヴァンにきくとこう答えた。

「彼らは誤爆のように見せかけてわざとやっている。僕たち市民の士気が高いことが予想外だったため、空爆で心理的に追い詰めようとしているんだ。それでも僕らは決して負けない」

振り返ると、夜空に先ほどの倉庫の赤い炎がいまだに広がっていた。翌日、ウクライナ当局はここでも2人が犠牲になったと発表した。

(つづく)

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