日仏で弁護士資格を持つ金塚彩乃はフランスが日本からの入国制限を無くしたことで久しぶりにフランスに滞在。そして帰国したのだが、公共交通機関を利用しないよう指示された上でホテルで2週間の待機を余儀なくされる。守らねば罰則が有るという。そこに根拠は有るのか?役所に問い合わせると意外な答えが返ってきた。(文/写真 金塚彩乃)
問題は何か?
そして、ホテルに滞在する。私には詳しい医学的なことはわからないが、潜伏期間を考えて14日間人と会うのを控えた方がいいということに一定の合理性があるであろうことは納得できる。旅行客のいない現在のホテルは価格破壊状態だ。快適な部屋を割安で利用することができている。大変快適で・・・ではある。
一方で、これは全て個人の負担となる。国が払ってくれるわけではない。負担に思う人も多いだろう。しかし、問題はそこにはない。問題は何か?言葉にするとこうなる。
「法律の定めがないのに、刑罰で罰せられるかのように恐怖心を抱かせて、公共交通機関を使わず、外出をさせない」。
それを事実上国が強制していることである。こう言い換えても良い。
「刑罰の威嚇をもって個々人の移動の自由を制約している」。
もう少し説明が必要かもしれない。
山尾志桜里議員の厚労省への問い合わせ
「しおりちゃん、ちょっと調べてもらいたいんだけど・・・」
ホテルでの自己隔離中、私は司法修習時代の友人である「しおりちゃん」に1つ頼みごとをした。「しおりちゃん」とは、国民民主党の山尾志桜里議員だ。
彼女とは司法修習の同期であり、彼女が国会議員になった今も親しく付き合う仲だ。
「羽田空港でもらった検疫所の紙に、違反者には刑罰を科すというようなことが書かれているんだけど、これって調べたけど法的な根拠有るように思えないんだよね。どうなんだろう。」
「え?なにそれ?」
オンラインでその紙を見せると「しおりちゃん」は驚きの声をあげた。
彼女の動きは早く。その翌日には、厚生労働省の担当者に、検疫のこの紙について説明を求めた。すると、厚生労働省の返事は驚くものだった。その紙の内容は事実ではなかったのだ。
その結果について、「しおりちゃん」が自身のFacebook(8月18日)に以下の様に書いているので引用したい。
「申告書から罰則記載が訂正削除されました!」
なんと、私を緊張させた罰則は、やっぱり正しくなかったようだ。彼女のFacebookの内容を更に引用する。
「先程厚労省から丁寧にご報告いただきました。重大なミスですが、指摘したら速やかに訂正されたのは立派だと思います。「無謬の行政」原則から皆が目覚め、失敗を非難するより、改善策を提案・実現していけば、社会はよりよくなる。厚労省では多くの方が過重な負担の中頑張っていると思いますが、もう一つの質問票の件(質問の記載すらないのに、質問に対する虚偽申告として罰則適用を示唆している問題)も速やかな対応をお願いしますm(__)m」
厚生労働省がこのように迅速な対応を取ってくれたことはありがたい。現場が大変なことはよくわかる。
しかし刑罰に関することなのに、検疫法の内容もきちんと確認をしないで人々の自由を拘束してきたことは、コロナ対策とは言え人の自由を拘束することの重みをあまりに感じていないのではないかと言わざるを得ない。これまでどれだけの人数の人がない罰則をあるものと信じさせられて自由を奪われてきたのだろうか。
他方では、「しおりちゃん」も指摘するように、もちろん厚生労働省にも緊張感を持ってもらいたいものの、行政の委縮がないよう、間違いは間違いとして認めスムーズな対応が可能になるよう、今後の改善策に目を向けることが重要だと思う。
これまでコロナ禍の中での様々な自由の制約は「自粛」の名の下に行われてきたが、今回は自由に動いたら犯罪になるかも知れないということで、そこには自粛の前提になる自由意志はない。その上、この刑罰の法律自体が存在しないから、架空の法律の威嚇によって、自由を奪われているという何とも笑えない状況になっている。
罪刑法定主義とは、言うまでもなく、ある行為を犯罪として罰するためには、明確に法律でその内容が定められていなくてはならないという近代社会の大前提である。日本の憲法では31条がそのことを定めていると解釈される。いうまでもなく、検疫所が何といおうと、国会で作る法律で決めていない限り、処罰を行うことはできないし、当然ながらできない処罰をできるように見せかけて行動を制約することも許されない。
後日、とある憲法の学者の先生から、同じく厚生労働省に問合せを行ったという話を聞いた。その際に厚生労働省は、申告書の約束違反は、検疫法12条の質問に対する虚偽回答になるとして、罰則適用の対象になるという説明を受けたという。
しかし、公共交通機関を使わないことと、待機場所から出ませんと申告書で選択の余地なく約束させられることは「質問」に対する「回答」とは言えない。
罪刑法定主義は、事件について直接に適用できる規定がない場合に,類似した事実に適用される刑罰法規を適用し処罰するという刑罰法規の類推適用を禁止している。申告を「質問」に対する虚偽回答とするのは、この禁止された類推適用に他ならない。
近代国家においては、国も法に服さなければならず、市民の自由を制約するには必ず法律でなければならないとされている。罪刑法定主義はその基礎的な表れである。日本もこの道を19世紀後半以降選んできたはずである。そして、その自由の制約は法律であれば何でも許されるのではなく、目的を達成するため(ここでは外国からウイルスを持ち込んで、日本で感染させない)に個人の自由の制約が手段として必要になる場合には、その制約の程度を必要最小限度にして、過度な自由の制約がなされないようにしなければならないとされている。
ルールの不在は自由ではなく、不自由なのだ
問題は、新型コロナウイルスの拡大を抑えるという目的だけが独り歩きして、手段の検討が適切になされず、果てはありもしない罰則で自由を縛るという何ともお粗末な現在の状況である。
そうであれば私自身もこの拘束を逃れて自由に動くこともできるかとも考えた。
ただ、法律の枠組みがおかしくても医学上の必要性があるのであれば周りの人への配慮から一定期間籠っているのはやむを得ないと思う。問題なのはそのやり方なのだ。だから国のやり方に腹を立てながら私はホテルの部屋に籠る。
私自身の14日間の制約は全体からみれば小さな問題だ。しかし、何度も書くが、それが問題ではない。人々に不自由を押し付けるにあたって国が、これまでの社会で当たり前のルールだと思っていたものを簡単に破ってしまっている・・・それが問題だ。私は素直に、恐ろしさを覚える。
本来であれば、どうすべきか?
もし国として帰国者が抗原検査陰性だけれども、医学的見地からどうしても14日間は待機をさせるなど国民の自由を制約することが必要だと真摯に考えるのであれば、法律を作るべきである。そして、その際は、14日間の全面的な外出禁止なのか、一定の範囲については外出可能なのかという禁止の線引きを吟味して、自由の制約の度合いが不必要に広がりすぎないようにしなければならない。
立法の必要性はここにもある。しかし、与党は憲法53条に基づき4分の1の国会議員の請求があっても国会を開くことを拒絶し続けた。
しかもこの検疫法の話だけではなく、そもそも、帰国者に対するような罰則の威嚇がない中でも、「今年は我慢の夏休み」などと言われて夏の行動の自粛が行われた。加えて、地方自治体による「自粛」に頼った法的根拠が曖昧な緊急事態宣言も。
「自粛」の名の下に法が向き合うことを拒否している様々な問題が山積している。ルール不明な社会の中で、日々私たちは手探りで生活し、どこまで頑張ればいいのか分からないまま、他人との我慢比べに疲弊する。
法律は本来は現実にある問題を精査した上で、最低限度の禁止事項を決めて後は人々の自由の領域を確保することにより、秩序を守りつつも私たちの自由を守るために存在する。しかし、私たちが今生きている社会では、国会は立法をすること自体を拒否し、自由のために必要な法は不足し、日々近代国家の基礎的前提が無視され続けているのである。
支配するのは、内容が合理的かつ誰にとっても平等な法ではなく、帰国者は公共交通機関を使ってはいけない等の誰かの決定だ。そこに、相互監視の中の我慢競争の結果により大きくなる同調圧力が加わる。その中で個人の自由は削られていく。
声を大にして言いたい。
「ルールの不在は自由ではなく、不自由なのだ」と。
(続く)