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米国ジャーナリズムの新たな潮流~非営利化する調査報道②  立岩陽一郎

●チャールズ・ルイスというジャーナリスト

この状況を打開する可能性を秘めているとして今注目を集めているのが非営利ジャーナリズムである。NPOを立ち上げて調査報道を行うというものだ。財源を一般からの寄付とすることで、経済的な影響を受けずに調査報道を行うことを目指すのである。

チャールズルイス
その形を最初に提示したのは、チャールズ・ルイス(Charles Lewis)というテレビ出身のジャーナリストである。ルイスは 1953年10月、米国東部のデラウエア州で生まれた。地元のデラウエア大学10で政治学を学んでいる。在学中に地元選出の上院議員の事務所でインターンを行うなどしている。政治に強い興味を持った若者だったという。1975年に大学を卒業し、外交官の養成で知られるワシントンDCのジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題大学院へ進んでいる。

ワシントンDCの大学院に進んだルイスの関心が政治にあったことは間違いないが、それは徐々に政治を監視することに移っていく。ルイスはこの当時の心境について、「ウォーターゲート事件が終わって数年しか経たないのに、多くの議員が起訴されるというスキャンダルが起きるなど、政治の世界には幻滅を覚え始めていた。それに、私は民主党、共和党という 2大政党制に疑問も持ち始めていた。そうした私にとって、政治家になるよりも政治を取材することが別の選択として魅力的に思えてきた」と回想している。
報道記者を目指したルイスは1977年、ABCテレビのワシントン支局に採用される。その時の支局長はカール・バーンスタイン(Carl Burnstein)だった。初回の連載で触れたウォーターゲート事件を調査報道したワシントン・ポスト紙の主要メンバーの 1人である。
バーンスタインは暫くして支局長の職を離れるが、ルイスはバーンスタインによって調査報道のイロハを学んだ。ルイスはバーンスタインについて、「カールは根っからの調査報道記者で、それが原因で支局長という管理職にとどまっておれずに辞任に追い込まれるのだが、私にとってジャーナリズムの最初の時期をカールと一緒に過ごせたのは幸運だった。カールは素晴らしい人物で、何よりも調査報道記者として群を抜いて優秀だった」と語っている。
バーンスタインの指導の下、ルイスは調査報道記者として頭角を現してくる。しかし、テレビに出る機会が少なく取材結果を短いニュースでしか伝える機会を与えられなかったことに不満があったという。ルイスを鍛えたバーンスタインが支局長の職を解かれてABCテレビを辞めるという出来事もあった。そして、ルイスに移籍話が来る。それはCBSテレビの看板番組「60 Minuets」からの申し出だった。
米国には当時、ABCCテレビ,CBSSテレビ,NBCテレビという 3つの全米を網羅したテレビ局があり、3大ネットワークと称されてしのぎを削っていた(現在はこれらにFOXTVが加わり 4大ネットと称されている)。そのライバル会社の看板番組から引き抜きの話が来たということである。
引き抜き話は米国のマスメディアの世界では珍しいことではないが、その接触の仕方は異例なものだったという。ルイスはその話が来た時について、「ある日突然、マイク・ウォーレス(Mike Wallas) から直接電話がきて、『君のことを耳にした。私と一緒に仕事する気は無いか?』というんだ。驚いてね。マイク・ウォーレスと言えば私からすれば、雲の上の様な存在だ。こちらは、実績こそ出していたが、テレビにもさほど出たことのない若い記者だ。光栄なことだし、何よりもウォーレスは「60 Minuets」のキャスターだ。彼と一緒に仕事をするということは、アメリカ
を代表する報道番組の制作に携われるということだ。直ぐにCBSテレビへ移ることを決めた」と話している。
マイク・ウォーレスはCBSテレビの看板番組「60 Minuets」 のキャスターとして長く活躍した米国を代表するジャーナリストである。若い記者の引き抜きに自ら電話をするということは、ルイスが駆け出しの頃から高い評価を得ていたことを物語っている。1984年、ルイスはCBSテレビに移籍する。そして「60 Minutes」のプロデューサーとなり、その後制作した 2つの番組でエミー賞 の最終候補となるなどしている。

●非営利ジャーナリズムの誕生

しかし 1988年、ルイスはCBSテレビを辞める。この経緯については、ルイスは特に個別の事象に原因があったわけではないとしている。一方でルイスは、「ある企業の不祥事を取材している時、CBSの幹部から『取材をするのはかまわないが、社名は出さないでくれ』と頼まれた。取材をするなとまでは言われなかったが、こういう話に実はうんざりしていた。そして結局、プロデューサーである私の判断で社名を出して放送した。その後その幹部が、『何で社名を出したんだ。あれだけ出すなと言っただろ』とクレームに来た。そういうものが重なって嫌になってきた。これでは調査報道はできない。そう考えてCBSを辞めることにした」と話し、商業的なマスメディアでは調査報道を行うことに制約が多いと感じていたことを隠さない。
CBSテレビを辞めた当時、ルイスを経済的に支えるものは無かったという。当時を回想した講演の中でルイスは、「当時は妻と8歳の子供、それに住宅ローンを抱えて職を失ったわけだから、皆から『何を考えているのか』と驚かれた。何よりもCBSの『60 Minutes』という米国のジャーナリストにとって考え得る限り最高のポジションを捨てるという点で、『Are you out of mind?(気でも狂ったか?)』と言われたものだ」と話している。
CBSを辞めたルイスは新聞社や他のテレビ局に行くことは考えず友人のジャーナリストらと新たなジャーナリズムのモデルが作れないか議論を続けた。当時についてルイスは次の様に語った。「とにかく議論を続けた。1人はNBCテレビのディレクターだったアレハンドロ・べネス(Alejandro “Alex” Benes)、もう 1人は現在、非営利ジャーナリズム「サクラメント・ビー(Sacrament Bee)」で調査報道を行っているチャールズ・ピラー(Charles “Charlie” Piller)で,この 2人と、商業主義からの決別とはどういうことなのか、それは具体的にどうやったら可能なのかを議論する毎日だった」という。
ルイスが最終的にたどり着いた案は、自ら団体を組織して調査報道を行うというものだった。その団体の運営方式は nonprofit(非営利)という形態で、商業的な世界から離れることで自由に調査報道を行うことを目指したのである。(続く)
(この原稿は、南山大学アジア・太平洋研究センター報第8号(2013年6月)に掲載された論考を著者の承諾を得て転載したものです)
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<<執筆者プロフィール>>

立岩陽一郎 
NHK国際放送局記者
社会部などで調査報道に従事。2010年~2011年、米ワシントンDCにあるアメリカン大学に滞在し米国の調査報道について調査。

 

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