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【総理の挨拶文】のり付着の痕跡は無かった(下)

【総理の挨拶文】のり付着の痕跡は無かった(下)

総理の挨拶文は広島市に保管されていた。そこには、のりが付着した痕跡も、はがそうとした跡も無かった。「のりが付着してはがれず」という政府の説明はなぜ行われたのか?ジャーナリストは更に取材を進めた。(文・写真/宮崎園子)

保管される総理の挨拶文

 今年8月6日朝、広島市であった平和記念式典で、菅義偉首相が挨拶の重要部分を読み飛ばし、その理由について、当日中に政府関係者が「のりが付着してめくれない状態だった」と説明した問題。広島市情報公開条例にもとづき、挨拶文の原本の開示を広島市に請求し、開示決定を受けて現物を確認した私が、のりが紙と紙の間に付着した痕跡も、それを剥がした痕跡も見つけることができなかったことを(上)で伝えた。

挨拶文にのりが付着した痕跡は無かった

 平和記念式典の挙行を担当している広島市市民活動推進課の担当者の説明によると、来賓は通常、自ら持参した挨拶文を取り出してスピーチ台で挨拶をした後、壇上に自身の挨拶文を置いて自席に戻るといい、この日も、菅首相の挨拶文は、式典終了時にスピーチ台に置かれた状態だった。市の担当者は、式典の終了後、挨拶文を、ほかの資料や備品などとともに箱詰めにして撤収し、週明けの8月9日から市役所の庁内で内容物の整理などに着手したという。次の様に話した。

挨拶文はこのスピーチ台に置かれた

 「あの日は式典が終わるだけで精一杯。とりあえず、いろんな物資がありますので、それを箱詰めにして置いておいて、確か翌日が休みだったような気がするのですが、休みが明けた週で片付けをした」

「事務方のミス」との報道

 菅首相は、当日の挨拶の中盤、「我が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要」などとする部分を読み飛ばした。その後、式典終了直後に会場近くのホテルで被爆者団体との面会を終えた後に臨んだ記者会見の冒頭で、読み飛ばしについて陳謝した。共同通信は、「政府関係者」が同日中、読み飛ばしの原因について、「原稿を貼り合わせる際に使ったのりが予定外の場所に付着し、めくれない状態になっていたため」で「完全に事務方のミスだ」となどと釈明したとする記事を6日中に配信した。

 翌日の朝日新聞朝刊の片隅に掲載された「首相動静」によると、この日の菅首相の動きは、こうだ。

  • 07:51 広島市中区の平和記念公園。
  • 07:52「黒い雨」訴訟原告の高東征二さん、高野正明さん。
  • 08:08 原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列し、献花、挨拶。
  • 08:53 同市中区の平和記念資料館。視察。田村憲久厚生労働相、松井一実広島市長同行。
  • 09:28 同市中区のリーガロイヤルホテル広島。
  • 09:51 宴会場「ロイヤルホール」で「被爆者代表から要望を聞く会」に出席し、懇談。田村厚労相同席。
  • 10:45 同宴会場で記者会見。
  • 11:56 広島空港。
  • 12:55 全日空678便で同空港発。
  • 14:01 羽田空港着。

 昼前には、広島を離れている。同行した周辺関係者もおそらく、一緒に行動している。広島市側に確認しない限り、挨拶文の原本の状態を確認することはできないはずだ。だが、広島市の担当者は、「首相周辺からの問い合わせは受けていない」というのだ。

内閣広報室は「回答できない」

私は、内閣広報室に対して、9月24日に取材を申し込み、以下の3点について尋ねた。

  • ①    菅首相の読み飛ばしの原因は何だと考えるか
  • ②    報道によると、挨拶文ののりが付着してはがれない状態になっていたとのことだが、それは菅首相の説明か、事務方の説明か
  • ③    「のり付着」との説明をするのに先立ち、挨拶文の形状について、原本を保管している広島市に確認したか。

内閣広報室の回答はこうだった。


「内閣広報室として、挨拶文作成などのロジには関わっていないので質問の回答はできない」

菅総理の「読み飛ばし」はその動画が首相官邸のホームページに掲載されている。意味が通らないままの式典挨拶の動画を、読み上げられるはずだった内容のテキストともに発信しているのは内閣広報室だ。しかし、「我々はコンテンツを管理しているだけ。総理大臣挨拶の全体の仕切りをしているわけではない」という。「そうであれば回答すべき窓口を教えてほしい」と尋ねたが断られた。「把握していない」「回答できない」の一点張りだった。

 ところで、広島市に残された総理大臣挨拶の原本はどう取り扱われるのだろうか。市の担当者に尋ねると、市には規定がないというが、例年、市民活動推進課が保管しているという。

 「われわれからしたら、首相が話す挨拶の内容自体に価値があるので、挨拶文の現物にはそんなに価値はないんです」

 だが、処分する規定があるわけでもないため保管している、というのが実態という。ちなみに、広島市長が式典で発するスピーチ「平和宣言」は、読み上げの手元原稿の原本を、平和記念公園内にある平和記念資料館(原爆資料館)に保存しているという。

広島市長の「平和宣言」の原本は平和記念資料館に保管される

被爆地と政府との溝 

 広島市職員がいうように、広島市民にとっては、挨拶の中身にこそ価値がある。つまり、頭上に核兵器を投下され、焦土と化した被爆地の市民は、外交の場で「唯一の戦争被爆国」を自称し、「核兵器のない世界」に向けた取り組みを進めているとされる日本の首相が8月6日の広島原爆の日に、原爆死没者や死亡した被爆者ら32万人以上の名前が収められた原爆慰霊碑の前でどんなメッセージを発するのかを見ている。首相の挨拶に先立ち、松井一実・広島市長が発した「平和宣言」は、政府に対してこう求めた。

 「被爆者の願いや行動が、75年という歳月を経て、ついに国際社会を動かし、今年1月22日、核兵器禁止条約の発効という形で結実しました。(中略)日本政府には、被爆者の思いを誠実に受け止めて、一刻も早く核兵器禁止条約の締約国となるとともに、これから開催される第1回締約国会議に参加し」てほしい。

 2017年7月、122カ国・地域の賛成によって、国連で採択された核兵器禁止条約。核兵器の保有や製造、核兵器による威嚇などを全面的に禁止した初めての国際法で、少しずつ批准国を増やし、発効に必要な50カ国・地域に今年1月、ついに達した。だが日本政府は、この条約に対して賛成していないどころか、交渉会議の場にすら参加しなかった。

採択後、これまで5回、広島原爆の日の平和記念式典が開催され、毎回首相が参列してきたが、「唯一の戦争被爆国」「核兵器のない世界」という定番のフレーズは毎回欠かさず盛り込みつつ、ただの一度も「核兵器禁止条約」に言及していない。

 菅首相は、挨拶冒頭、「広島市」というべきところを、「ひろまし」と言い、「原爆」というべきところを「げんぱつ」と言った。そして、核兵器のない世界への決意表明であるはずの挨拶の重要部分を読み飛ばした。広島を拠点に、原爆や被爆者に関する報道に携わってきた私には、被爆地と政府との間の、精神的な溝・隔たり・ギャップが、ここまで深く果てしないものなのか、というやりきれない思いがある。

原爆ドームはその時を見つめていたはずだ

 前出の本田博利・元愛媛大教授は、こう吐き捨てた。

 「事前に一度でも挨拶文に眼を通しておけば、万が一のりでくっついていても気が付いたはずで、読み飛ばすわけもない。彼の仕事は棒読みなのに、棒読みすらできないのか」

 OBとして、広島市からしたら迷惑な話だと承知の上であえて開示請求に踏み切ったのは、「被爆者をはじめとする広島市民に対するふざけ切った冒涜を、過去の話にしたくないから」という。

あまりに美しかった挨拶文

 私が広島市公文書館で閲覧した、首相の挨拶文原本は、最初のページは1センチ程度の折り込みがつけられ、めくりやすく工夫されているほか、紙と紙の継ぎ合わせの部分は、とても丁寧に、乱れなく、貼り付けられていた。

丁寧な手仕事で作られた総理の挨拶文

あまりに美しかったので、テープ状ののりか何かを使っているのかと思ったぐらいだ。ひとつひとつ、ハサミを入れた跡があったため手仕事とわかる。蛇腹の幅もピチッと揃っていて、これを準備した現場の役人の仕事ぶりにはただただ感銘を受けた。にもかかわらず、「完全に事務方のミス」(共同通信)と罪をなすりつけられたのならば、現場の役人が気の毒でならない。

 こうした「政府関係者」の根拠なき説明を、そのまま伝える報道機関。私の不信感は募るばかりだ。あるいは、「たかだか、広島での挨拶なんて」と考えているのだろうか。そうでないと信じたい。

(「総理の挨拶文」は上下で終わりですが、宮崎園子さんは今後も広島を拠点に取材を続ける予定です。InFactでは引き続き宮崎さんの記事を掲載していきます)

【筆者略歴】1977 年広島県生まれ。小中学校の大半を香港、高校の大半をアメリカで過ごす。 慶應義塾大法学部卒業後、約2年間の金融機関勤務を経て、 2002年朝日新聞入社。神戸、広島、大阪で災害や原爆・戦争、警察・司法、社会福祉など担当。2017 年に2度目の広島勤務。 2021 年7月退社。広島市内で小学生2人の子育て中。

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