◇「サムスンと闘って、勝てると思っているのか」
韓国のサムスン電子の半導体工場で働く従業員に白血病などの健康被害を訴えるケースがあいつでいる事件を追ったシリーズ。被害を訴える従業員や遺族に対して、サムスン電子は「勝てると思っているのか」と言い放った。
首都ソウルから東に直線距離で約150㎞のところにある束草(ソクチョ)市。3時間半ほど車を飛ばして到着した同市は、日本海に面し、のどかな田舎町の雰囲気を残していた。
勝訴した原告のファン・サンギは、この地でタクシー運転手として働いている。白血病で亡くなったファン・ユミの父親だ。わざわざ仕事を休んで、私を小さな平屋の家に迎えてくれた。
「日本からよくいらっしゃいました。韓国のマスコミはこの問題をなかなか取り上げてくれないんです。本当に嬉しいです」
ファンの言う通りだった。私は日頃から韓国のメディアもウォッチしているが、この問題が報じられたのはあまり見たことがない。今回の裁判の結果は通信社が配信しているが、私の知る限り、それを大きく取り上げた韓国の新聞やテレビはない。
研究論文に載ったファン・ユミさんとファン・サンギさん親子の写真 |
小柄で優しそうな表情のファンは、淡々とこう打ち明けた。
「ある大手のテレビ局に、この件を報道してほしいと相談に行ったことがあるのですが、『サムスン電子で働いていて白血病になった? それなら証拠を持ってこい』と言われただけでした」
「それは、相手がサムスン電子だからですか?」
「ええ。この国は”サムスン共和国”ですから・・・」
年間の売り上げが日本円で20兆円を超えるサムスン電子は、韓国では圧倒的な存在感を持つ巨大な企業グループだ。韓国でよく聞く話に、「サムスン電子は韓国のGDPの20%を稼いでいる」というものがある。もちろん、厳密な計算を経た数字ではないだろうが、韓国のGDPが130兆円余りであることを考えれば、感覚としては当たらずと言えど遠からずといったところかもしれない。
実際、韓国の街を歩いていると、ひっきりなしに「SAMSUNG」の文字を目にする。半導体、スマートフォン、高画質テレビ、自動車、そしてマンション建築と、至るところに広告や宣伝が出ているのだ。ファン・サンギという一人の初老の男性が、そんな巨大企業との闘いで相当な孤立感を覚えたであろうことは想像に難くない。
それにしてもファンは、なぜ、娘の白血病の原因が工場で使われていた化学物質にあると考えたのだろうか。
「(白血病を発症したのが)娘だけではないと聞いたんです。彼女の職場での先輩も白血病になったとか。そこで私は、具合が悪くなって苦しそうに横になっている娘に『いったい工場でどんな作業をしていたんだ?』と細かく尋ねていったんです」
ファン・ユミの仕事は、ウェハーと呼ばれる半導体の基盤を洗浄する作業だった。DVDを二回りくらい大きくした半導体の基盤50枚を束ねたものを、液体の中に入れて洗う。彼女はその作業を繰り返していた。
「液体が入った水槽があって、その中にウェハーの束を入れ、しばらく浸けてから出す。新たなウェハーが来たら、また同じことをする。それが朝から晩まで続いたそうです。部屋の中は異様な臭いがしていたと言います」
現場の従業員に簡易なマスクは貸与されたが、暑さと息苦しさとで外してしまう人が多かったという。
ファン・サンギは、娘を亡くした後、その死亡について労災申請をするとサムスン電子側に伝えた。そのときのサムスン電子の担当者に言われた言葉が今も忘れられない。
「サムスン電子と闘って勝てると思っているんですか?」
裁判では、前述のような二審の結果が出て、勝った形にはなった。しかしファンには、自分が勝ったという思いはないという。
「この裁判は、ほんの一歩です。まだ多くの人が娘のように苦しんでいます。その人たちのためにも裁判に勝ったことは大きいと思いますけど、サムスン電子が方針を改めるまで、やることはまだ多くあります」
●健康だった男性が、35歳の若さで死亡
ファン・サンギがそう考えるのには理由がある。裁判で争われたのは、5人の元従業員の白血病の発症を労災とするかどうかという点だった。ところが裁判所が労災と認めたのは、ファン・ユミと、同じ職場にいたイ・スギョンの2人についてのみ。
これは、ファン・サンギが前述のように、娘の生前から聴き取りなどをしていたことが功を奏したと思われる。しかし他の3人についての裁判所の判断は、「白血病と職場との因果関係を立証するには証拠が不十分」というものだった。
判決から6日後の8月27日。サムスン電子本社ビルの前で、大きな声を張り上げる数人の人々がいた。その中の一人の女性は、涙を流しながらこう声を振り絞っていた。
「判決にあなた方は満足でしょうが、私は胸が張り裂けそうです!」
サムスン電子の半導体工場で働く夫を白血病で亡くしたチョン・エジョンだった。先に紹介したファン・ユミと違って、夫には労災が認められなかったのだ。
35歳で亡くなったファン・ミヌンさんと妻のチョン・エジョンさん |
チョンもかつてサムスン電子に勤務しており、夫とは同社で同僚として知り合った。職場結婚だった。
夫のファン・ミヌンの写真を見せてもらった。赤いTシャツを着て、テレビでサッカーのW杯を観戦している様子を撮ったものだ。男前のスポーツマンタイプに見える。
「夫は運動が好きで、病気一つしたことがありませんでした。それが急に体調を崩し、病院へ行ったら、白血病と診断されたんです。今も信じられません」
ファン・ミヌンはその後、骨髄移植の手術を受けたが死亡する。35歳の若さだった。
「サムスン電子は、私が(本社ビルの前で抗議の)声を上げると、すぐに警察を呼んで逮捕させるんです。すでに2回、逮捕されています。この前は、あなた方(取材陣)がいたからそうはしませんでしたが、普段はもっと厳しいです。私も夫もサムソン電子で働く従業員だったのに、ですよ・・・。
だから私はサムスン電子の皆さんに尋ねたい。『それでもあなたたちは、グローバル企業の社員なのですか?』と」
チョン・エジョンは今、夫の忘れ形見である娘を育てながら強く生きようと決意している。「保育士として働きながら今後も裁判を闘い続けます」と語った。(続く)
(この原稿は、「現代ビジネス」に掲載された記事を著者の承諾を得て転載したものです)
<<執筆者プロフィール>>
立岩陽一郎
NHK国際放送局記者
社会部などで調査報道に従事。2010年~2011年、米ワシントンDCにあるアメリカン大学に滞在し米国の調査報道について調査。
サムスン電子の工場でなぜ白血病は多発したのか?(1) 立岩陽一郎
サムスン電子の工場でなぜ白血病は多発したのか?(3) 立岩陽一郎
サムスン電子の工場でなぜ白血病は多発したのか?(4) 立岩陽一郎
サムスン電子の工場でなぜ白血病は多発したのか?(5) 立岩陽一郎
サムスン電子の工場でなぜ白血病は多発したのか?(6) 立岩陽一郎
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