日本の様々な産業の現場で使われている化学物質。その数が7万種類に及び、毎年新たに1000種類が加わっている。しかし、その多くについて、危険性や有害性の確認や周知が行われていない現状がある。政府が有識者の検討会に示した文書で明かした。その化学物質はあらゆる産業で使われている。化学物質は私たちの生活を支えていると言っても良い。しかし、当然、化学物質は人体に影響を及ぼす。そこで働く人々の安全ははたして守られているのか?取材からその実態を明らかにしていく。(文・写真/立岩陽一郎)
2019年11月7日、東京医科歯科大学附属病院の一室で男性が医師に尋ねている。
「これは癌が再発しているということですか?」
男性と医師の間には、画像が置かれている。
「ええ。前回も確認できたものですが、それがはっきり大きくなっているので、これは再発したと判断できます」
画像を見る男性の顔が青ざめていくのが横にいる私にもわかる。医師は、努めてだろうと思うが、冷静に話を進める。
「手術の日程を決めましょう。早いところで、来月中だと・・・」
日程を決め、手術のための検査をこの後に受けることを決めた。
そして医師の部屋を出た男性は廊下の長いすに腰を落とした。私には崩れたように見えた。
「再発・・・」
そして、両手で顔を覆った。その向こうに、「泌尿器科」と書かれた札が見える。再発したのは膀胱癌だった。
男性は現在、46歳(2019年12月12日現在)。ここで実名にしていないのは、本人の希望による。仮の名として、新田徳としておく。
新田は、4年前の42歳の時に膀胱癌を発病して手術。その後、3か月に1度の検査を続けてきた。その検査とは尿管にカメラを入れるという想像するだけで卒倒しそうなものだ。
この日はその検査を行うというので同行させてもらったが、こんな結果になるとは私もそうだが、新田も予想していなかったと思う。検査の場には私は入れなかったが、検査室から出てきてふらついている新田を見た時は、それは苦痛を伴う検査が終わったからだと思った。しかしそうではなかった。検査中に画像を見ることはできる。その時に新田は、再発の事実を知った。前回の検査で確認された腫瘍が大きくなっていたからだ。
医師は、再発する度に腫瘍を取り除くと言うが、それが取り除けるところにできている内は、はそれで良い。しかし膀胱の奥に腫瘍ができるとそれはできなくなる。
「その時は死ぬしかないんです」
新田は力なく言った。
なぜ自分が膀胱癌になったのか、一つの確信を持っている。新田は、名の有る衣料メーカーの社員だ。そこが製造を委託している中国の工場で製品のチェックを行う立場だった。2007年から2012年までその仕事に従事している。
様々な機能を持ち鮮やかな色彩をアピールする最先端の衣料品、つまり衣服には、様々な化学物質が使われている。そうした化学物質が衣服に付着したまま製品化されることは避けなければならない。男性は、完成した製品の状況を検査していた。製品の見た目とともに、化学物質特有の刺激臭が残っていないか確認していた。
新田がその作業を書いた絵がある。
そして、「鼻をするようにかいでいた。手に染料がつき、洗ってもなかなか落ちなかった。鼻先に染料がつくことも有った」と述懐している。
「強い刺激臭が有った」とも記憶している。この証言は、この連載の①と②で取り上げた大阪の印刷工場での化学物質被害の端緒を思い起こさせる。
印刷業界で多発した胆管癌(前編) 調査報道シリーズ/化学物質の脅威①
印刷業界で多発した胆管癌(後編) 調査報道シリーズ/化学物質の脅威②
新田は2012年に帰国。その後、暫くして体調に異変を感じる。尿に血が混じっていたのだ。膀胱癌と診断されて直ぐに手術。その再発が判明したのが冒頭の場面だが、膀胱癌との告知と手術というその精神的、肉体的な苦痛の中で思い出したのが、工場に大量に置かれていた巨大な容器。そしてそこに記されていた「CI酸性」の文字。その後、専門家の意見を聴くなどして、CI酸性という塗料や染料で、その中に化学物質のベンジジンが含まれている可能性が高いことがわかった。
新田が頼ったのは長年化学品製造会社で勤務した経験から化学物質の被害救済を行ってきた堀谷昌彦だった。堀谷は後述する三星化学工業の化学物質被害でも実態解明に関わり従業員の労災を勝ち取っている。堀谷は言った。
「ベンジジンは昔から繊維業界で染色に使われており、その結果、多くの膀胱癌を引き起こしてきたことはよく知られている。ベンジジンは人間の体で代謝されると発癌性物質となることが明らかになっており、普通に考えて新田さんの業務から見て、工場で使われていたCI酸性が原因と見るべきだ」
新田は、堀谷以外の専門家にも意見を聞いてまわった。そして、工場で使われていたこの「CI酸性」が膀胱癌の原因だと考えるに至った。膀胱癌と診断した医師も、次の様に話している。
「通常、膀胱癌は42歳という年齢では発症しません。新田さんは喫煙歴も有りませんので、膀胱癌になる要因が無い。そうしたことを考えると、職業性による膀胱癌という印象が十分強い」。
また、労働安全衛生の専門家で長年にわたって化学物質の人体への影響を調べてきた医師の久永直見も、診断した医師の発言を妥当だとした上で、新田が作業現場で確認したCI酸性に暴露した疑いは強いとした。
そして新田は労災を申請した。しかし、結論を言うと、労災は認められなかった。その理由を労働基準局が開示した資料から考えると、会社が協力しなかったからという一語に尽きる。会社は、工場で使われていた化学物質について明らかにしていないばかりか、そもそも、新田が説明している作業工程に新田が従事した事実も否定した。一方で、当時の新田の上司は労働基準監督署に対して、「(作業の)手法として匂いを嗅ぐことによって判断がつくと教えたことはあります。・・・私は手法を教えただけで、匂いを嗅ぎなさいと言ったことはありません」と、会社の主張とは異なる供述をしている。新田が私に話した内容は今後詳述するが、その具体性から見て会社の主張には無理が有ると思うが、労働基準局はその会社の主張を入れて、職場との因果関係を否定した。
新田の様なケースは稀ではない。福井県の三星化学工業で、従業員11人が膀胱癌を発症した。この会社はポスターのインクになる材料を製造しており、製造工程で従業員は化学物質のオルトートルイジンに曝露したと見られるが、会社は消極的な対応に終始。この時は、次々に従業員が癌を発症する中で厚生労働省が動き、業務との関連を認めた。つまり、労災を認めた。被害が広がると見れば、政府は動く。しかし、そうならない限り、政府は動かない。政府が動かない以上、労災は認められにくい。
これは大阪の印刷工場に端を発した胆管癌の問題の時もそうだった。無視できないくらいの被害が認められると政府は動くが、そうでないと対応しない。本人さえ、労災だと思わずに死亡するケース、その遺族さえ肉親の死が労災だと思わないケースも有る。
こういう状況は、どう考えたら良いのか?当然だと思うかもしれない。しかし、私たちはそうした考えの中で、被害を食い止める機会を逸してきたのも事実だ。それが日本の環境行政の歴史と言っても言い過ぎではない。
実は、厚生労働省には、こうした状況に危機感を抱いている人はいる。厚生労働省化学物質対策課だ。去年(2019年)、「職場における化学物質等の管理の在り方に関する検討会」という有識者会議を立ち上げている。
検討会に出された政府の資料に以下の様に書いてある。
「現在、国内で輸入、製造、使用されている化学物質は数万種類に上るが、その中には危険性や有害性が不明な物質も少なくない。こうした中で労働災害は年間450件程度で推移し、法令による規制の対象となっていない物質による労働災害も頻発している状況にある」
そこには更に詳しい状況が書かれている。それによると、私たちの社会を豊かにするために作り出される様々な製品の製造過程に導入されてきた化学物質は、約7万種。このうち、その強い毒性が確認されて使用が禁止されたのは石綿(アスベスト)など8種。危険性が確認されているものが約700種。
つまり危険性が確認されて使用に規制が有るものは、全化学物質の1%ほどでしかない。また、化学物質は次々に開発されており、毎年新たに導入される化学物質は1000にのぼるという。
つまり、私たちの生活は「化学物質の脅威」の上に成り立っているわけだ。その状況が変え難いのは、一度手にした便利で豊かな生活を手放すのは困難だからだ。しかし、否、だからこそ、その脅威にさらされる人を救わなければならない。私たちは、誰かの犠牲の上に成り立つ社会を許容してはいけない。
この調査報道「化学物質の脅威」では、私たち社会を支えている産業の現場で起きている問題を掘り下げていく。次回は、新田の更に詳しい状況を伝える。
※当初、「三星化学」と誤記していましたが、三星化学工業の誤りです。訂正させて頂きます。