インファクト

調査報道とファクトチェックで新しいジャーナリズムを創造します

【司法が認めた沖縄戦の実態㉑】アメリカ軍収容所の実態

【司法が認めた沖縄戦の実態㉑】アメリカ軍収容所の実態

沖縄で組織的な戦闘が終わる2か月余り前、世界遺産・今帰仁城跡で知られる村にアメリカ軍が現れる。それは戦闘の終わりを意味したが、住民の苦しみの終わりは意味しなかった。(文箭祥人)

アメリカ軍は1945年4月1日、沖縄中部の西海岸に上陸し北上する。そして8日、今帰仁村に進軍した。

今帰仁村は沖縄本島北部から西に突き出た本部半島の付け根にある。後に世界文化遺産に登録される今帰仁城跡で知られる歴史と文化の村だ。その村で生まれ育った原告の桃原政秋さんは当時、13歳。「村にアメリカ兵が来る」の知らせが村中に伝わる。桃原さんは、この時の様子を陳述書にこう書いている。

「家族全員が家の中に集まり、両手を挙げて降伏のポーズを示しながら、アメリカ兵に最敬礼をして迎えました」

アメリカ軍は12日には本部半島全体をほぼ制圧した。本部半島に駐留していた日本軍はアメリカ軍の攻撃に積極的に迎撃せず、敗走した。残ったのは住民となった。

アメリカ軍は今帰仁村の住民を集落の広場に集め始める。桃原さんは次のようにこの時の様子を書いている。

「村の世話人が家にやってきて、広場に集まるように言われました。行ってみると、そこには、まばらにアメリカ兵がいて、軍用トラックが何台も停まっていました」

桃原さん一家は指示されるまま、トラックに乗り込む。桃原さんは、母、15歳の姉、11歳の弟、6歳と3歳と1歳の3人の妹たちと同じトラックに乗る。

「座る場所がないくらい多くの人が乗っていました。行き先は教えられませんでした」

およそ30キロ走り、名護に入り、突然、トラックが止まる。

「助手席に乗っていたアメリカ兵が山に向けて、何発も銃弾を発射しました。何が起こったのかわからず、驚き、恐怖しました」

名護市史「名護・やんばるの沖縄戦」によると、アメリカ軍は1945年6月25日から、今帰仁村、その隣町の本部町、本部半島に避難していた伊江島、これら住民つまりは本部半島のすべての住民の強制移動を始め、その数は、およそ2万人に上った。

名護市史に強制移動の経験談が掲載されている。ある女性は次のように言う。

「前々から、まことしやかにささやかれたことがあります。軍艦に乗せて海に捨てる、山中の洞窟に埋める、アメリカに連れて行き奴隷にするなどです。集まった人たちの顔から観念したような様子がうかがえました」

一人の男性は移動中に目にした海の様子をみて、次のように言う。

「海岸線をみたら、だれも一言もものを言わなくなりました。なぜかというと、日本の船が何十隻、何百隻かわからないほど沈んでいるし、何万本、何十万本というアメリカ軍の弾薬やドラム缶燃料が陸揚げされていました。最後だな、とみんな思っていたんです」

アメリカ軍のトラックは進む。どこに連れて来られたのか、桃原さんは言う。

「私たちは名護市辺野古の収容所に入れられました」

桃原さんを含む2万人の住民が収容されたのはアメリカ軍が設置した「大浦崎収容所」。今のアメリカ軍キャンプ・シュワブがある地域に民間人収容所がつくられていた。普天間基地の移設先として埋め立てが行われているのがこのキャンプ・シュワブの沖合だ。

アメリカ軍のトラックから降ろされた住民は異口同音に「赤土の山肌をむき出した荒地」「草木も生えないはげ山」と語り、住む場所を探していると日本兵の死体が転がっていたという。

収容所に着いた住民は、割り当てられたテントでの生活を始まる。桃原さん一家は、他の住民と同じテントで過ごすことになる。

「テントの中には何十人もいたと思います」

収容所暮らしは何より、飢えとの戦いであった。米や砂糖、塩、小麦粉、缶詰類などの配給は一定量あったものの、不毛の地であり、2万人がいた。桃原さんは次のように言う。

「食事は配給制でしたが、十分な量ではありませんでした」

名護市史に「一番大変だったのは食べ物だった」「一日中、食べ物のことしか考えていなかった」という証言が記されている。住民がとりわけ困ったのは野菜が全くなかったことだという。次の証言がある。

「耕作放棄された田んぼに生えている水草など、見つけ次第何でも食べました」

お腹をすかす育ち盛りの子どもたちも多くいた。

「子どもたちは、停泊しているアメリカ軍の艦船から海岸に流れてくるリンゴやソーセージの切れ端を拾って食べていました」

ほとんどの住民が副食として固い海藻を食べたという。

「海岸に流れ着いたホンダワラを長時間煮て食べましたが、固くてかまずに飲み込みました」

桃原さんは、収容所の住民が「越境」と呼ぶ食糧探しに行く。収容所から出ることは禁止されていたが、飢え死にしないために、その禁を破るしかなかった。収容所地域に金網などはなく、誰からともなく、「越境」が始まったという。

「収容所の子どもたち4、5人と一緒に、朝からおにぎり2つ持って、故郷の今帰仁村まで食糧を探しに行きました」

収容所から今帰仁村までおよそ30キロ。いくつかの山がある。アメリカ兵を避けるために山道を歩かなければならなかった。山の所々に木の枝が折られていて、それが山道の目印になっていた。山に一人で暮らす老人の家に泊まり、翌朝、今帰仁村に向かう。2日かかってやっと到着した。

「ひたすら山道を歩きました」

そして、村で一人で暮らす老人の民家を拠点に食糧探しが始まる。

「畑から芋などを採りました。1人で袋2つ分、重さにして合わせて20キロくらいだったと思います」

2つの袋を天秤棒に担いで、収容所に戻る。

「山道の途中、日本軍の敗残兵がいることがありました。顔も上げずに恵んでくださいと言う人もいれば、軍服を見せて寄こせと脅されたこともありました」

取ってきた芋などは、同じテントにいる人たちで分ける。

「2、3日でなくなってしまうので、10回くらいは今帰仁に行ったと思います」

しかし、食糧は足りなかった。

「4歳だった妹の春子が亡くなりました。朝になって冷たくなっているのを母が気付いて、その時は、春子はとてもやせていて、骨と皮だけのような見た目でした。栄養失調だったと思います」

桃原さんは親戚と一緒に埋葬する。

「今のアメリカ軍の辺野古弾薬庫の辺りに墓地がありました。そこで穴を掘って埋葬しました。目印のため茶色の二合瓶を置き、花を手向けました」

アメリカ軍の辺野古弾薬庫はキャンプ・シュワブに隣接する。冒頭の写真は対岸から撮ったもので、弾薬庫は外から見ることは出来ない。

沖縄戦が終わっておよそ1年後、春子の遺骨を今帰仁村にある桃原家の墓に入れようと遺骨収集に行く。

「アメリカ軍がこの土地を使用するとのことで、アメリカ軍に掘り起こされていました」

戦後2年となる1947年7月、8歳になる妹シズが亡くなる。

「シズが亡くなった時、とてもやせていて、栄養失調だったのではないかと思います」

この年の10月、父清五郎が亡くなる。

「父は防衛隊に召集され、終戦間際、糸満でアメリカ軍の捕虜になり、ハワイの収容所にいたそうです。戦後2年経って、帰ってきました。収容所生活で体調を崩しており、それが原因で亡くなりました」

桃原さんは戦後の生活はとても苦しかったという。

「母は難聴で、足に障害があり、胃も弱く、仕事をすることができませんでした」

そのため、桃原さんは日雇いの仕事に就いた。当時15歳だった。中学校には行けていない。

「人の畑や田んぼを耕すような仕事でした。その仕事での無理がたたり、両足の太ももの筋肉を痛め、1か月入院しました」

桃原さんは陳述書の最後、思いを綴っている。

「妹の春子とシズは、この悲惨な戦争に巻き込まれ、まだ小さいのに栄養失調で苦しい思いをして亡くなりました。この戦争がなければ、春子もシズも幸せな生活を送ることができたと思います。いまだ、春子は遺骨を見つけることもできず、きちんと埋葬することもできていません」

なぜ、アメリカ軍は2万人にもおよぶ住民を強制移動したのか。それは戦争継続のためだった。名護市史に次の記載がある。

「アメリカ軍は海兵師団の野営地をつくるため、本部半島のすべての住民の移動を決定した」

Return Top