沖縄戦では日本兵が地元住民をアメリカ軍のスパイと疑って殺害するケースが報告されている。原告比嘉洋子の祖父もその一人。残虐非道な沖縄戦被害だ。(文・写真/文箭祥人)
スパイ容疑で日本兵に祖父が斬殺された
比嘉洋子の祖父の比嘉省三は、太平洋戦争が始まる前、ぺルーに移民。ペルーではレストランを経営、スペイン語が堪能だった。沖縄戦当時は、ペルーから沖縄本島の知念村に戻り、精米所を経営していた。妾である比嘉ウトとウトとのあいだに生まれた子ども2人と、ペルーで別の女性が生んだ子ども2人、合わせて6人で暮らしていた。
ペルー移民だったことが、その後のスパイ容疑斬殺につながることになる。
なぜ、祖父はぺルーに渡り、沖縄戦前に帰郷したのか
太平洋戦争前、沖縄は貧しかった。多くの県民がハワイや北米、南米に渡り、現地で仕事に就いた。稼いだお金が沖縄に送金され、沖縄の経済を支えた。沖縄県民がペルーに渡ったのは1906年が最初。それから合計でおよそ11,000人の県民が遠く離れたペルーで汗を流した。その一人が祖父の比嘉省三。1941年に起こった真珠湾攻撃が契機となり、ペルーで反日運動が起こる。日本人が経営する商店やレストランは没収され、多くが帰郷した。ペルーでレストランを経営していた祖父の省三も帰郷せざるを得なかったのだろう。
原告の洋子は1943年、南洋の島パラオに生まれ、両親と暮らしていた。パラオが太平洋戦争の戦場になる前、洋子の両親の故郷である渡名喜島に戻った。この島はNHK朝の連続ドラマ「ちゅらさん」のオープニングで放送されるほど、美しい島だ。父は徴兵され、戦争中に負傷したが、ほかの家族に大きなけがはなかった。ただ一人祖父が亡くなった。
スパイ容疑斬殺の証言
洋子は陳述書で、祖父がスパイ容疑斬殺された経緯を述べている。
1945年5月10日。この日の昼食の時、祖父の家に突然、日本兵2人がやってきた。うむも言わせず、祖父を連行した。日本兵は祖父だけでなく、ぺルーで生まれ育った息子も連行しようとした。しかし、息子は山中に入り、連行を逃れた。
住民の誰かが、日本軍に「比嘉省三はスパイだ」と密告したようだ。祖父はペルー帰りでスペイン語を話すことができた。それだけで、スパイだと密告され、日本軍にスパイ容疑で殺されたのだ。祖父は連行されるとき、家族に「もう戻ってくることはできない」と話し、殺されるのを覚悟していたのだろうと家族は思った。
数日後、祖父は山の中で首から肩にかけて斬られた状態で亡くなったのを部落の人が見つけた。連行を逃れた息子が現場に行き、自分の父であることを確認した。
祖父のスパイ容疑斬殺について、洋子は陳述書で訴える
「祖父はただの民間人だった。スパイ行為などするはずがない」
さらに、洋子は次のように指摘する。
「沖縄戦当時、異常な雰囲気の中、祖父のようにスパイ容疑で殺された人は他にもいると思う」
洋子が言うように、沖縄各地で日本兵によるスパイ容疑斬殺の証言が残っている。省三が暮らしていた知念村での証言は、日本軍の「異常な雰囲気」がわかるものだ。
当時15歳の高等女学校の生徒が壕の中に閉じ込められている2人の男性を目撃している。2人とも日本軍にスパイ容疑をかけられ捕まっていた。
その一人、当時60歳の男性は日本軍に薪や竹、さらに当時貴重だった饅頭を納入していた。これらの代金が未払いとなっていて、日本軍に請求したところ、逆に日本軍にスパイ呼ばわりされ捕まった。米軍上陸直前で緊迫している日本軍の機嫌を損ねたのだろうというのが周辺住民の見方である。
もう一人、当時50歳の男性は、ハワイ移民帰りで、ハワイ式農業経営を行っていた。飢えた日本兵が無断でこの男性が飼っていた豚をと殺して食べた。男性はこれに抗議した。住民の誰かが、この男性がハワイ移民帰りであることをとらえて、「彼はスパイだ」と日本軍に告げ、スパイ容疑で捕まった。
その後、この2人は射殺された。
スパイ容疑斬殺は、なぜ起こったのか
明治期から昭和の初めにかけ、日本軍は沖縄県民を、軍事思想が不十分だ、皇室国体に関する観念が徹底していない、とみていて、沖縄県民を蔑視し、差別意識を持っていた。スパイ容疑斬殺の根底には、こうした日本軍の沖縄県民観があった。
日本軍が沖縄県に配備された時、民家を兵舎として使用し、軍人と住民が同居していた。さらに、日本軍は住民を陣地構築や飛行場建設に駆り出した。そのため、軍事機密は住民に知られる状況にあった。軍事機密が漏れるのを恐れた日本軍は住民をスパイ視し、殺害した。
日本軍だけではない。住民をスパイ視し、取り締まるために、日本軍は沖縄県当局と連携した。漏えい対策は徹底していて、地域の警察や消防などに住民の監視をさせ、住民同士が監視し合う体制も作り上げた。祖父に対するスパイ密告は住民監視の網にかかったことになる。
放置され続ける、祖父の沖縄戦被害
戦後60年の2005年、洋子は祖父の斬殺について、援護法に基づく申請を行った。日本軍によってスパイ容疑で殺された住民は「戦闘参加者」として、援護法の対象になっている。比嘉さんは複数の役所を駆け回り、申請に必要な書類を集め、那覇市に申請の手続きを行った。しかし、申請は拒否された。援護法による補償の道が閉ざされた。
「役所の担当者は、私が孫だからというようなことを言ったが、よく意味が理解することができなかった」
日本軍にスパイ容疑をかけられ斬殺された祖父。この被害に対して、国はいまだ、何らの謝罪を行っていない。
洋子は陳述書の最後で次のように訴える。
「戦争がなければ祖父は日本軍にスパイ容疑をかけられて、殺されることはなかった。国はきちんと責任を取ってもらいたい」
1950年代に厚生省が沖縄戦を調査した報告書に以下の記述がある。
「在来から沖縄に居住していた住民で軍の活動範囲内で敵に通じたものは皆無と断じてさしつかえないと思う」