沖縄のリゾート地、宮古島。観光客が降り立つ宮古空港。この空港は、沖縄戦当時、日本海軍の飛行場だった。宮古島には、ほかに2つの陸軍飛行場があった。太平洋戦争末期、日本軍の敗北が始まり、日本軍は「帝国」を防衛するため沖縄県を重視するようになり、平坦な地形である宮古島に軍用飛行場建設を計画し、人口5万2千人の宮古島に、3万の軍隊を配備した。そして悲劇はそこでも起きていた。(文箭祥人)
飛行場を建設する広大な土地には住居や畑があった。その土地を日本軍が強制的に取り上げたのだ。畑を奪われた住民の証言が残っている。
「あと4、5日で収穫だ、それまで待ってくれと軍に頼み込みましたが、強引に稲は切り払われました」
取り上げは徹底していたという。
「滑走路からだいぶ離れた畑もとられてしまいました。稲を青刈りしました」
畑の主たちは涙を流していたという。
日本軍は形式上、土地を買い上げたが、土地代の多くは公債であったり、強制貯金にさせられたりで、現金を受け取っていない住民もいた。
6歳で軍の飛行場建設に
当時6歳だった原告の豊見山貢宜さんは、陸軍西飛行場の建設に徴用された。陳述書に徴用された経緯が記されている。日本軍が住民に対して、次のように命じた。
「飛行場の完成日程がだいぶ遅延している。作業人員を増やすため、健康な男子小学生も作業に出すように」
身体が大きく、体力があった豊見山さんは、母や兄、姉とともに飛行場建設の作業をさせられた。
「モッコウを担いで、土の運搬、ザルを持って、整地作業などをさせられました。大変、つらい思いをしたことを覚えています」
飛行場建設がすすむ中、豊見山さんが小学1年生になったばかりの1945年4月15日、 アメリカ軍の攻撃を受ける。
「日本軍から石や土の運搬の要請を受け、母や兄、姉、ほかの人たちとともに作業を手伝っていました。そのとき、アメリカ軍の機銃掃射を受けました」
アメリカ軍の攻撃は1回では終わらず、この日の午後にも、機銃掃射が豊見山さんを襲った。
「バリバリ―と機銃掃射があり、左右の大腿部を弾が貫通、重傷を負いました。一緒に作業をしていた女の子も負傷、その後、破傷風などにかかり、亡くなったと聞いています」
そこで記憶も途切れたという。
「機銃のバリバリ―の音までは覚えていますが、気を失いました」
直ちに、豊見山さんは戦争前、鏡原小学校だった陸軍野戦病院に搬送されたという。
「病院は兵隊の負傷者が激増していました」
宮古島へのアメリカ軍の空襲は1944年10月10日に始まり、翌年1945年1月から、アメリカ軍・イギリス軍は連日のように無差別爆撃を続けた。3月以降は特に爆撃は激しくなり、昼間の外出がほとんど出来ないほどであった。海軍・陸軍の飛行場は繰り返し攻撃された。豊見山さんはこうしたなか、重傷を負ったのだ。
患者は戦闘による負傷者だけではなかった、陳述書に次のように書かれている。
「マラリア患者の手当で病院は混雑を極めていました」
3万の軍隊が配備され、当然その分の食糧を確保しなければならなかった。しかし、畑だった土地で飛行場建設が始まり、空襲が激しくなるにつけ、宮古島各地で畑仕事が危険となり、収穫作業もできなくなった。さらに、アメリカ軍・イギリス軍の空、海から爆撃で食糧を運んできた輸送船が沈没し、輸送路が絶たれてしまった。その結果、食糧不足から栄養失調に陥った多くの兵士がマラリアに罹った。
沖縄県史によると、沖縄戦の戦没兵士2569のうち、90%近くは爆撃ではなく、栄養失調とマラリアにより死亡したとされている。
混雑を極めた病院に送られた豊見山さんは十分な治療を受けてはいない。
「住民の手当ては充分にされていませんでした。仮の手当をされて、この日のうちに帰宅させられました」
陸軍は住民に対して、軍用飛行場建設作業を強要したにもかかわらず、負傷すれば半ばほったらかしにしたのだ。
帰宅させられた豊見山さんはその後、どうなったのか。
「仮死状態が数日続きました。出血多量の負傷でしたが、薬品が不足していました」
輸送船は、食糧や武器、燃料だけではなく、医薬品も運んだ。海からの輸送路が絶たれ、爆撃による負傷者やマラリア患者を治療する医薬品は不足していた。
「傷口が化膿し、ウジ虫が徘徊していました。応急処理により、一命を取りとめました」
住民が命がけで作業し、完成した滑走路1250メートルの陸軍西飛行場。しかし、使用されなかった。飛行場近くの沖に浮かぶ小島が飛行機の離着陸の邪魔になるから、ということであった。
戦後も続く被害
戦後、豊見山さんは再度、小学校に入学。しかし、負傷した両足の大腿部は完全に治らず後遺症が残り、自力では歩くことができなかった。家族や担任の先生らに背負われて登校した。豊見山さんは、この頃の心境を陳述書に書いている。
「一番辛かったのは、友達にびっこで歩く私に向かって、『ナイギャ』とからかわれ、いじめられたことです」
ナイギャは宮古島の方言でびっこのこと。体育の時間は運動が全くできず、木陰で見学をしていたという。びっこが治るまで5年を要した。
社会人になってからも豊見山さんは後遺症に悩まされ続ける。
「歩くにも座るにも負担が大きく、長時間の仕事はできませんでした。職を転々としました。収入も少なく支障をきたしています」
豊見山さんは身体だけでなく心の傷にも苦しみ続けている。
「機銃掃射されて両足に弾が貫通した時のことを今も思い出します。そのため、よく眠れません」
1つ1つの記憶が鮮明に焼き付いている。
「体育の授業の時、木の下で見学させられた自分のみじめな場面がよみがえってきます」
日常生活でも異変が起こっている。
「階段を上がる時などに、急に動悸がしたり、めまいや不安感を感じるようになりました」
普通に会話をするのも困難に感じるという。
「会話をしていると突然意識が途切れて別のことを考えてしまうことがあります」
これらの症状に対して、精神科医の診断が下った。
「総じて、機銃掃射体験の恐怖、学校でいじめられて差別されたことのくやしさなどから来るもので、沖縄戦と関連した病態である」
診断は2015年にされ、この時、豊見山さんは77歳になっていた。6歳での戦時の体験が77歳になっても消えないのだ。
戦後55年にあたる2000年、豊見山さんは援護法適用の申請を行った。この法律は、戦闘参加者と認められた住民を援護の対象にするとなっている。豊見山さんは、戦闘参加者と認められると考えていた。しかし、豊見山さんの申請は却下された。厚生労働省から届いた書類に却下の理由が記されている。
「宮古島についてはアメリカ軍の上陸がなかった。そのため戦闘参加者とは認められない」
厚生労働省は、豊見山さんが受けた負傷に関する事実関係は認めた。しかし、軍に強制された労働をしていて、そこでアメリカ軍の攻撃で負傷した場合であっても、上陸戦でなければ、適用しないと基準を定めた。
豊見山さんは陳述書に書いている。
「全く納得がいきません」
(編集長から)
この連載を執筆している文箭祥人氏は21年2月28日をもって30年余務めていた毎日放送を退職されました。市民目線で取材をする記者として知られた文箭氏は、21年3月1日からは、フリーのジャーナリストとして活動します。勿論、この「司法が認めた沖縄戦の実態」はこれからも続きます。