返還が日米で合意されているアメリカ海兵隊の普天間飛行場。ここにはかつて部落があり人々が住んでいた。そしてそこでも悲劇は起きている。(文箭祥人)
冒頭の写真は現在の普天間飛行場。3000メートル級の滑走路を持つアメリカ海兵隊の航空基地だ。沖縄戦が始まる前、ここには神山や大山など12の部落があり、住民が暮らしていた。アメリカ軍は1945年4月1日の上陸前、空襲や海上の軍艦からの艦砲射撃で、この地を攻撃した。住民は自宅を離れ、近くにあるガマと呼ばれる自然壕に避難した。原告の上間千代子さんもその一人だ。
上間さんは陳述書に次のように書いている。
「沖縄戦が始まるというとき、母と姉、二人の妹の五人で神山のガマに逃げました。神山という字(あざ)は現在の普天間飛行場の中にあります」
神山部落の六ケ所の自然壕はどこも住民でいっぱいだった。地域史を記録する「神山誌」にガマに隠れていた45歳の女性の体験談が掲載されている。
「爆弾の音が耳をつんざき、大地は大きく地響きし、私たちは自然壕に終日、釘づけになりました。空襲や艦砲射撃はますます激しくなり、その日の無事を祈り、運を天にまかせるだけでした」
また、当時11歳男性の体験談に次のように記されている。
「壕から部落の様子を見ると、家が燃え上がるのが見えました。夜、照明弾があがると恐ろしく、すさまじい艦砲射撃に声も出ませんでした」
食料を取りにガマに戻った母が死亡
ガマに避難していた上間さん家族に兵隊が命じる。日本兵だ。
「アメリカ軍が上陸するので危ないから出て行くように」
アメリカ軍の上陸が迫っていた。神山のガマを離れ、南におよそ1キロ離れた我如古(がねこ)のガマへ移動。その夜、母は娘たちに次のように言って神山のガマに戻る。神山はアメリカ軍の攻撃にさらされる最中だった。
「残してきた食糧を取りに行くから、待っているように」
しかし、母は3日経っても帰ってこなかった。一緒にいた大人が娘たちに告げる。
「あんたたちのおかあさんは、乳飲み子もいるから、生きていたら這ってでも帰ってくるはずだよ。これだけ待って帰ってこないのだから、もう亡くなっているよ。ここは危ないから逃げる」
この時、上間さんは10歳、姉のヨシ子は11歳、そして、3歳の美代子、生まれて半年の恵美子。子どもたちだけとなった。それも3歳、0歳の幼子もいる。
「四人の子どもだけでは、どうしようもなく、母を待つこともなかった。大人たちを追いかけるように、首里方面へ逃げることになりました」
艦砲射撃が飛び交う中、およそ6キロ先の首里に向かう。
「大人から、赤ちゃんが泣くとそれを目がけて攻撃されるからと追い払われたこともありました」
そこに助ける女性が現れる。
「ついて来なさい」
やっとの思いで首里にたどり着き、上間さん姉妹とこの女性は大きな亀甲墓に入ることができた。亀の甲羅の形をした大きな石造りの墓だ。
「3歳と乳飲み子の妹たちをどうにかしなければいけない。姉のヨシ子と私たちに手を差し伸べたこの女性が近くにあった警察の壕を訪ね、父を呼び戻してほしいと訴えに行きました」
沖縄戦開始前、上間さんの父親は防衛隊に召集され、このとき首里に置かれた警察の壕にいた。訴えに対する答えがかえってきた。
「お国のために働いている以上、戻せません」
父親を頼ることは叶わなかった。ただ、食糧をもらえることになった。
「警察からもらえたのは、一日一人おにぎり一個と赤ちゃん用の粉ミルクです」
ひもじさに耐えられない上間さん姉妹は、アメリカ軍機が飛び交う危険を承知の上で、食糧を探しに行く。
「艦砲射撃で荒らされた畑に行って、地面に出ていた芋を拾って食べました」
3歳の妹が栄養失調で死亡 自身も砲撃で大けが
わずかな食糧で命をつなぎ、首里に来て数週間経った4月中頃。
「3歳の妹美代子が栄養失調で亡くなりました」
上間さん姉妹は隠れていた墓の隣に、妹を埋葬した。それから一週間ぐらいが経った。このころ、アメリカ軍は首里まであと数キロの地点まで迫っていて、「鉄の暴風」と表現された容赦ない攻撃が続いていた。
「妹を埋葬した場所に大きな爆弾が直撃しました。美代子の遺体も何もかも、なくなってしまいました」
それから、1、2週間後、警察から命じられる。
「けが人が増えてきた。この墓は軍隊が使うことになるから、住民は出て行くように。これからは食糧も提供できない」
おにぎり1個と赤ちゃん用粉ミルクを手にすることができなくなった。首里を離れ、日中は木の下に隠れ、夜移動する、これを何日か繰り返し、南部の真壁にたどり着く。首里から真壁までは直線距離で約12キロだ。
一つの民家に上間さん姉妹は隠れていた。避難してきた人でいっぱいになっていた。そこに艦砲射撃が直撃。10人くらいが亡くなったという。上間さんも大けがを負う。
「頭蓋骨が陥没して、指が入るくらいでした」
姉のヨシ子が毎日、ヨモギで傷口の消毒をした。
死んでいく家族 そして1人
上間さんはけがをしたまま、避難を続け、真壁に近い国吉に着く。
「生後半年の妹恵美子が亡くなりました。どんどんやせ細って、栄養失調でした」
木の下に埋葬した。埋葬場所がわかるように目印をつけたが、戦後、目印を見つけることはできなかったという。
さらに避難は続く。とうとう最南部の喜屋武岬に着く。隠れる場所は民家しかなく、そこも人でいっぱいだった。上間さんはけがをしているため、優先的に入ることができ、姉のヨシ子もそばの馬小屋に入ることができた。この馬小屋を艦砲射撃が直撃する。
「姉は顔も見られないくらい瀕死の重傷を負いました。『死んで母のところに行くけど、あんたは独り残されてかわいそう』と言い残し、亡くなりました」
大人たちは自決しようと海に向かい、上間さんも海に身を投げようとついて行き、潮が満ちるのを待っていた。そこに、ラジオのようなもので標準語を流す人が通りかかり、標準語がわからない大人たちは、日本語が流れてきたから日本兵が日本の勝利を告げにきたのだと思い込み、万歳をしながら、音のする方に出て行き、上間さんも状況がよくわからないまま、この大人たちについて行った。そして、アメリカ兵に捕まった。
その後、上間さんは南部の百名(ひゃくな)にある孤児を集める場所に連れて行かれる。
そして百名にアメリカ軍が作った戦争孤児のための収容所に移り、しばらくして、中部の安慶田(あげた)の施設に移動する。そこで、同郷の人が上間さんを見つけ、生き残った祖母のもとに届けられる。
戦後、上間さんは故郷の大山に戻る。小学生の年齢だったが、学校に行かなかったという。
「祖母はお金がないからと言って、学校に通うことはできませんでした。毎日朝4時から畑仕事を手伝わされました。18歳からアメリカ軍の仕事をしましたが、早朝と夕方は畑仕事をしなければならない生活が続きました」
今も続く精神的苦痛と普天間飛行場
戦後70年、上間さん80歳のとき、精神科医の診察を受ける。上間さんは次の症状に苦しんでいた。
「夜中の2時ごろまで眠れなかったり、かと思うと3時や4時に目覚めます。夢はしょっちゅう見ます。戦時の記憶を思い出すこともよくあります」
さらに次の症状に苦しんでいるという。
「テレビを見ていて、途中で筋書きが分からなくなる時があります。誰かと会話していて、意識が飛んで、会話が途切れることがあります」
次の症状も。
「読み書きができなくて困ります。人ごみに入ると、みじめな気持ちに襲われて、他人に対して劣等感を抱きます」
精神科医はこれら症状について、沖縄戦の体験や学校に行けなかったことからくる戦争PTSDだと診断した。
沖縄戦で一人になった上間さん。警察と行動を共にしていた父親も戦死したが、どこでどのように亡くなったのか、結局わからずじまいだったという。残された上間さんは戦争PTSDに苦しんでいる。
陳述書の最後に、上間さんは次のように書き記している。
「沖縄戦のせいで、両親も姉妹もすべて亡くなりました。私自身、頭をけがしました。学校にも通うことができませんでした。両親が持っていた財産も私独りしか残らなかったから、親戚の手に渡ってしまいました。本当に何も残されなかったのです。このような長い苦しみを理解して、国はきちんと救済してほしいと思います」
上間さん家族が避難し、母が亡くなった神山部落などの地域は、1945年4月、アメリカ軍が占領した。その後、アメリカ軍はこの地域に日本本土上陸作戦のための軍事拠点の一つとして、普天間飛行場建設を始めた。これが現在の普天間飛行場のはじまりだ。