6月23日は沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わった「慰霊の日」。「沖縄戦の終戦の日」とも言えるかもしれない。しかし戦争を生き延びた沖縄県民にとって戦争はけして終わってはいない。(文箭祥人)
「私の家族は兵隊のための炊き出しをしていました」
沖縄南部、南風原村神里(はえばるむらかみざと)。両親と姉と暮らしていた山田秋子さんは陳述書にこう書いている。1945年3月か4月。山田さんはもうすぐ9歳になるところだった。
山田さんの父は農業を営み、稲やサトウキビを作っていた。生活に困ったことはなかったという。それが沖縄戦で一変する。
日本軍部隊が配備された村、戦場と化す
地元の当時の状況を記した『神里字誌』にこう記載されている。
「神里周辺の畑や原野には弾薬や糧秣が野積みされていた。公民館や製糖工場、また瓦屋をはじめとした民家も軍の宿舎として徴発された。神里に宿泊した軍関係者は約400人、この数は、当時の神里人口約700人から見ると、実に2人に1人は兵隊で占められていたことになる」
日本軍の訓練や陣地構築が日常化し、住民は兵隊と隣合わせの生活となった。山田さん家族は家とその近くの防空壕を行ったり来たりしながら、日本軍に炊き出しをしていた。
そして米軍の上陸作戦が始まる。当時の様子が南風原町史に書かれている。
「4月1日に米軍が上陸する、その前の空襲、艦砲射撃によって戦場そのものとなった。住民は避難壕に隠れた。直撃弾が壕を襲う。犠牲者が続出する」
山田さんの陳述書に戻る。
「そのうち、南部でも戦闘が行われるようになり、南風原まで来ているという噂が広がりました。私たち家族は、家から10分くらいの畑に自分たちで作った防空壕で生活するようになりました」
この防空壕には両親、姉、兄の妻とその子、そして山田さんが避難した。二人の兄は徴兵され、それぞれ台湾と南洋にいたという。
日本軍の水汲み命令に従事する中、艦砲弾の破片が背中まで貫通
山田さん家族の防空壕生活は続いていた。そして、5月8日。
「私は軍の水汲みの手伝いをしていた姉について、水汲みに行きました。その帰りに壕に入ろうとした瞬間に艦砲が近くに落ちました」
さく裂した砲弾の破片が山田さんを突き刺す。
「破片が首から頚椎すれすれに体内に入って、背中まで貫通しました」
姉が軍の診療所に運ぶ。軍医が治療するが、山田さんは歩くことができなくなり、手も十分に上げることができなくなった。
「その時、軍医から瓶に入った消毒液をもらいました」
その後、戦闘が激しくなり、山田さん家族は南部へ避難する。
「姉と母が交互に私を背負ってくれました。姉は食べものよりも消毒液を大事に抱えて避難したと戦後、聞きました」
南風原からさらに南へ。東風平(こちんだ)を通って、糸満の真栄平(まえひら)に着いた。
筆者はこのルートを実際に歩いてみた。平坦な道が続くが、糸満へ行く手前に山があり、坂道を登らざるを得ない。息を切らせ汗を拭いながらの歩行で、およそ3時間かかった。山田さん家族が歩いた時期は沖縄では梅雨で、雨の中、ぬかるんだ道を歩いたのだろうと想像する。冒頭の写真は糸満の手前の山から南風原方面を撮ったものだ。
真栄平に着いた山田さん家族はそこで見つけた壕に入る。すでに避難してきた人たちが10人以上いた。
「壕には、祖父の兄弟の妻、遠い親戚の女性二人がいました。三人はお腹が大きかったです。十分に動くことができなかったため、壕の奥の方にいました」
三人の妊婦を壕に残して他は、壕の外に出て、食糧探しや水汲みに行く。こうした日が続く。
「6月のことだと思います。三人の妊婦を残して、他の人が外に出ていた時、壕のすぐ近くに砲弾が落ち、中にいた三人が亡くなりました」
生き残った山田さん家族らは、壕にいることができなくなり、別の場所へ動く。
「三人の亡骸はきちんと埋葬することができませんでした」
アメリカ軍の捕虜となり収容所へ
向かった先は真栄平の隣、真壁。
「真壁あたりには、避難してきた人が列を作っていました」
アメリカ軍のトラックが現れる。
「米軍のトラックが何十台も来て、住民を車に乗せていました。別のトラックに乗せられてしまうと、家族がバラバラになってしまうので、私たち家族は父を中心に固まって、同じトラックに乗りました」
トラックは現在の南城市玉城(なんじょうしたまぐすく)で止まった。
「トラックが着いたところには、大きなテントがいくつもありました」
山田さん家族はアメリカ軍の収容所に入り、そこで終戦を迎えた。
「戦争が終わってからも、軍医からもらった消毒液で治療をしていました」
収容所近くに百名(ひゃくな)小学校があったという山田さんの証言から、この収容所は百名収容所だと思われる。百名収容所で治療を受けることになる。
「収容所近くに浜松病院という診療所ができ、その病院で治療を続けました」
この時、山田さんは小学校2年生。百名小学校に半年通い、その後、南城市内の別の収容所に移り、そこで2、3か月を送る。
その後、神里の実家に帰る。実家は一部が焼けたり壊れたりしていて、壊れた部分をテントで覆って、暮らしていたという。この時、山田さんは小学校3年生の途中だった。
「小学校まで4キロくらいありました。背中の傷が痛み、歩くことが大変でした。3年生の終わり頃まで小学校に行くことはできませんでした」
中学校・高校では、体育ができないため、体育の授業を休む。高校を卒業してから、いろいろな病院や整骨院などを転々として、リハビリを行う。少しずつ良くなったという。
山田さんはいつも、首が隠れる服を着ていた。
「母は私が女の子であることから、傷を他人に知られないようにしていました。私も傷を見られるのが恥ずかしかったです」
拒否された援護法の申請
山田さんは24歳で結婚、3人目の子どもが生まれたころ、市役所に援護法申請の相談に行く。沖縄戦において、法的に「戦闘参加者」と認められた民間人死傷者は援護法の対象となる。山田さんは市の窓口でこう言われる。
「あなたは3人も子どもがいて健康なのに、こんな申請をするのか」
その後2001年、再度申請をするが、認められなかった。山田さんは日本軍のために、家族と炊き出しをし、姉と水汲みを手伝い、日本軍に協力したが、「戦闘参加者」と認められなかった。
山田さんは陳述書の最後、こう書いている。
「戦争でけがを負い、傷跡を見られないように生活をしてきました。私を含めて、戦争で被害を受けた人には何の落ち度もありません。同じ戦争で被害を受けた人が区別されることはおかしいと思います」
8歳のときに負った山田さんのけがはまだ治っておらず、治療は続く。冬になると傷口が痛くなるという。
壕で一緒に避難生活をしていた三人の妊婦が亡くなった。赤ちゃんは生まれなった。山田さんによると、その後、三人の遺体を見つけ出して埋葬することができたという。