銃後の守りのために結成された大日本婦人会と統合された沖縄の女子青年団。本土では銃後の守りだったが、沖縄では戦場、しかも最前線に放り込まれることになる。(取材/文箭祥人)
「兵隊のいるところに行って、畑仕事や飛行場作りで夜通し働きました」
原告の嘉数ノブさんは沖縄戦前を振り返って、こう陳述書に書いている。嘉数さんは沖縄県の南部、高嶺村字真栄里(現在の糸満市真栄里)に生まれ育ち、この時18歳だった。真栄里は沖縄戦で日米の激しい戦闘が繰り返されることになる。冒頭の写真は今の真栄里の風景。
そして、沖縄戦が始まるおよそ1年前の1944年4月、嘉数さんは真栄里の区長からこう命令される。
「戦争に参加しなさい」
嘉数ノブさんは当時、女子青年団の役員を務めていた。女子青年団について、沖縄県史に次のように記述されている。
「1926年(大正15年)、内務省と文部省は女子青年団体の組織・指導のための訓令を発した。女性青年団の結成には、女性たちを国策に協力させるため、組織化をはかって指導する必要があったことなどの狙いがあった。これらすべての婦人会は1941年(昭和16年)のアジア太平洋戦争勃発の翌年、大日本婦人会として一つに統合され、戦争遂行の一翼を担わされていくのである。」
真栄里の区長の命令に対して嘉数さんはこう返した。
「自分は嫌だ!」
区長はこう言った
「日本は必ず勝つから、そのときには顔を向けられない」
嘉数さんは女子青年団の役員であることを理由に挙げたが、区長の説得は続き、最後は説得に応じた。
「やむなく戦争に協力しました」
その後、嘉数さんは、同じく女子青年団役員の玉城ヨネ子さん、玉城文子さん、賀数カメ子さんの3人と行動をともにする。3人は20歳前後だった。嘉数さんら4人は区長の命令によって「戦争に協力」するようになる。
「戦車妨害のために真栄里の南の方で、石や土を運んだりしました。夜になると、大きな弾薬を頭に載せて、真栄里の海岸から200メートル離れたエージナ島から真栄里に運びました。とてもひやひやして怖かったです」
弾薬運搬、戦車妨害作業の命令が続く。戦況は次第に激しくなる。
「(米軍が)機関銃を撃つので、その弾がヒュウヒュウと飛んできました」
さらに戦闘が激しくなる。
「部隊の本部に呼び出されました。本部はおよそ700メートル登ったところにあって、そこまで1日3、4回、水汲みをさせられました。野菜探し、炊事もやりました」
ある日、水汲みをしている時。
「兵士が真栄里の海岸から女の子をスパイだと言って連れて来ました。その後、この女の子がどうなったのかわかりません」
それから数日が経って、部隊本部とは別の隊から水汲みを命令される。
「ここでも弾が激しく飛び交っていました。岩に隠れながら水汲みをしました。近くの壕に兵隊さんが2、3人いて、そこで私たち4人がしょんぼりしていると、砲弾の炸裂音が響く中、一人の兵隊さんが「泣くな、妹よ、妹よ、泣くな」と歌っていました」
夕方になり、一人の兵隊が「夕涼みに行く」と言って壕の外に出る。
「この兵士さんは壕から出た途端に撃たれて、壕から5メートルぐらい離れたところで、「腕をやられた!」と叫んで、自分の鞄から手榴弾を出して、「天皇陛下、バンザーイー!」と3回言って、自爆しました。その現場を見ていた私たちは気が変になって何が何だか分からなくなりました」
弾が止んで、嘉数さんら4人は部隊本部へ逃げる。それから数日が経ったある日。
「アメリカ軍が、本部に向かってガスを撒きました」
それから、部隊本部は「自由にしなさい」と命じた。嘉数さんら4人は2人の兵士とともに、その場を離れる。
「その途端、照明弾がピューッと撃ち上がりました。兵隊さんは射撃され、兵隊さん二人の行方をわからなくなりました。死亡したものと思います」
嘉数さんら4人は避難を続ける。あちらこちらで戦闘機の音が響く。4人は山道を転がり落ちる。落ちた場所に銃を持ったアメリカ兵が立っていた。
「私たちは後ろに後ろに下がって、落ちた場所からまた山道を登りました。一人一人必死になって登ったところは爆弾が落ちてできた大きな穴でした。そこに、アメリカ軍の食糧や菓子がたくさんこぼれていて、おなかが空いていたので、食べものを取りました。穴の上から、アメリカ軍が機関銃を激しく撃ってきました。私たちはちりちりばらばらになり、他の3人の行方がわからなくなりました」
嘉数さんはこの攻撃で負傷する。
「左足に弾があたって、怖くなって自分で死のうと思い、タオルで首を絞めたり、舌をかんだりしましたが、死ねませんでした。それから意識を失いました」
嘉数さんはアメリカ軍に捕らえられ、沖縄県中部の宜野座に移され、収容所で治療を受ける。治療は毎日続き、15日後に退院。その後、5、6回、通院したという。
部隊の命令により行動をともにした女子青年団役員だった4人のうち、生き残ったのは嘉数さんだけだった。
戦後29年経った1974年、嘉数さんは、沖縄戦で負傷した左足の太ももとくるぶしの手術を受けた。10時間に及ぶ大手術だった。しかし、後遺症が残り、苦しみは消えないという。戦後、嘉数さんは糸満市の市場で野菜の小売商を続けてきた。
「1988年までは、小売商で細々と生活費を支えていましたが、負傷したところが悪化し、日常生活に重大な支障をきたしたので、以降は野菜売りも辞め、自宅でひたすら静養に努めています」
嘉数さんの負傷は、日本軍の要請・指示により戦闘に参加して、弾薬運搬や戦車妨害を行ったために発生したものだ。沖縄戦において、軍人や軍属でなくとも、戦闘に参加したと国に認められた民間人死傷者は援護法の対象となり、年金などを受け取ることができる。嘉数さんは1982年、援護法による障害年金請求手続きをする。
「戦闘参加者だと認定されました。しかし、負傷の程度が援護法が規定する程度には達していないとされて、請求は却下されました」
国は、嘉数さんは戦闘参加者だと認めたが、負った傷が援護法が定めるほどには重くないから、国は援護しないという。嘉数さんは陳述書の最後、こう書いている。
「私は、請求却下の結果に納得できず、援護法の申請を止めて、この裁判の原告になりました。私のけがや苦しみに対して国に謝罪と償いをしてほしい、そうでなければ死んでも死にきれない思いです。これが人生最後(の訴え)になります」
(つづく)