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【新田義貴のレバノン取材メモ③ ヒズボラの町】

【新田義貴のレバノン取材メモ③ ヒズボラの町】

このところ、テレビのニュースで「ヒズボラ」という言葉を耳にすることが多くなった。その多くが恐ろしい武装勢力といった印象を与えるものとなっている。実際はどうなのか。新田義貴はその「ヒズボラ」が支配する地域に入った。

5月28日。朝9時、ホテルを出発しベイルート南郊の町、ダヒエへ向かった。レバノン南部でイスラエルと激しい戦闘を続けるヒズボラの、本部をはじめとする中枢機能が置かれた本拠地である。

ヒズボラとは「ヒズボ・アラー」が正しい。アラーが「神」を意味することは知っている人も多いだろう。アラビア語で「神の党」を意味する。レバノンを拠点とするイスラム教シーア派の政党であると同時に、武装組織でもある。

1982年のイスラエルによるレバノン侵攻を機に、シーア派イスラム主義国家イランの支援を受けて結成された。国会に議席を持ち、テレビ局も運営するなど、レバノン国内で大きな政治力を有する一方、地域住民に対する医療・教育・福祉などの社会活動にも力を入れ、シーア派貧困層から幅広い支持を集めてきた。そしてその軍事力は、長らくレバノン国軍を凌ぐとされてきた。

(町のいたるところにヒズボラの旗が掲げられていた)

我々の「フィクサー」のアッバスが運転する車は、東ベイルートのキリスト教徒地区を抜け、20分ほど走っただろうか。やがて町の風景が一変した。道路脇には、2024年にイスラエル軍によって殺害されたヒズボラの指導者ハッサン・ナスララ師や、イスラエルとの戦闘で殉教した兵士たちの肖像が、至るところに掲げられている。

「あれが誰だか分かるか?われわれの指導者だ。」

アッバスが指さす方向には、今年2月にイスラエル軍とアメリカ軍の攻撃で殺害されたイランの最高指導者、アヤトラ・アリ・ハメネイ師の肖像も堂々と掲げられていた。ヒズボラとイランとの緊密な関係を示すものだろう。

ダヒエは、シーア派住民80万人以上が暮らす広大な町だ。特に入り口に検問所があるわけではないが、外国人がこの町を自由に出入りしたり行動したりすることはできない。常にヒズボラの構成員が、写真撮影などの不審な行動がないか監視しており、地元住民でさえ用事がなければ近づかないという極めて特殊な町である。もちろん町中にもレバノン軍の基地がありレバノンの警察も駐在しているが、町の実権を握っているのはヒズボラだという。ひとつの国家の中に、もうひとつの国があるような異様さを感じる。

実はアッバス自身、ダヒエ在住のシーア派信徒だ。そのため通常は極めて難易度が高いとされるヒズボラとの取材交渉が比較的スムーズに運んでいるように思える。

町に入ってすぐのビルの前の路上に、アッバスが車を停めた。ここでヒズボラの構成員と落ち合う手はずになっていた。彼は前日のうちにヒズボラの広報部へ撮影を申請し、構成員の付き添いを条件に許可を得ていた。やがてバイクにまたがった中年の男が現れた。立派な髭を蓄え、上下とも黒ずくめの服装だ。黒は、シーア派において悲しみと追悼を象徴する色とされる。

預言者ムハンマドの孫フセインが西暦の680年にカルバラの戦いで殉教したことは、シーア派にとって最大の悲劇的事件とされ、ヒズボラは自らをその殉教精神の継承者と位置付けている。黒い服を好むのはそのためだという。本来シーア派にとって”カルバラの悲劇”は、正統カリフをめぐるスンニ派との戦いの記憶であったが、ヒズボラにとって憎しみの相手としてはイスラエルに置き換えられ、占領者に対する抵抗運動として位置づけられているとも感じた。

「黒」の男は、「ついてこい。」と手で合図し、バイクを走らせた。

僕たちも車で後を追う。さっそく車の中から移動ショットを撮影しようとカメラを構えると、運転席のアッバスにすぐに制止された。

「この町では、彼の許可なしにワンカットたりとも撮影は許されない。彼がいいと言うまでは絶対に撮影をしないように。」

彼の顔を撮影することもインタビューすることも、もちろんできない。バイクはライフル銃を持った兵士二人が立つゲートを抜けていった。

案内された先は、ダヒエ中心部にあるヒズボラの集会施設だった。入り口の壁にはカラシニコフ銃を握る拳をデザインした、ヒズボラの黄色い旗がはためいている。アッバスによれば、ここではヒズボラ主催のさまざまな式典が行われるのだという。これまでに十数回の空爆を受け施設は徹底的に破壊されていた。PR映像などにも頻繁に登場するいわば組織の象徴ともいえる施設を叩くことには、イスラエル軍による心理作戦としての側面もあるのだろう。

集会施設の周囲に建つ高層住宅も、軒並み徹底的に破壊されていた。ビルが建物ごと斜めに倒れている光景も目に入った。イスラエル軍によれば、ヒズボラが地下に武器弾薬を隠し、幹部や戦闘員を潜伏させることが多いため、地下まで貫通する大型爆弾を使用するのだという。もちろんヒズボラ側はそうした事実はないと否定しているのだが。

しかしその結果として犠牲になるのは、地上部分に暮らす一般住民であることが多い。ヒズボラの本拠地であるダヒエは、これまでも幾度となくイスラエル軍による激しい攻撃の対象となってきた。今年4月8日の大規模空爆では、わずか10分間で100カ所以上が攻撃を受け、被害はダヒエを中心にベイルート中心部にまで及んだ。

レバノン保健省の空爆1週間後の発表によれば、死者は少なくとも357人、負傷者1223人。レバノン内戦終結後、最大級の犠牲者を出した一日として「アル・アルバアー・アル・アスワド」(アラビア語で「暗黒の水曜日」の意味))の名で歴史に刻まれることとなった。

次に案内されたのは殉教兵士の墓地だった。去年造成されたこの墓地には、2024年にハマスによるイスラエル攻撃に呼応して始まった戦闘で命を落とした戦闘員を中心に600人が眠る。今年、イスラエルによるイラン攻撃を機に始まった新たな戦闘でも多くの兵士が殉教しているが、この墓地には収まりきらず新たな施設が建設中だという。

墓地には若い兵士たちの遺影とバラの花、コーランが手向けられていた。訪れている遺族には女性の姿が多い。兵士の若い妻と、その息子とおぼしき親子。母親と見られる中年女性の姿もあった。みな厳粛に祈りを捧げ、長い時間遺影の前に座り続けている。

僕は去年、沖縄戦の”慰霊”をテーマに、15年にわたり摩文仁を訪れる人々の姿を追ったドキュメンタリー映画『摩文仁 mabuni』を日本で劇場公開した。ヒズボラの殉教兵士の遺族の姿を目にした時、摩文仁で撮影し続けてきた沖縄戦遺族たちの面影がふと重なった。戦争の形も思想も異なれど、肉親を失った家族の悲しみだけは、どこであっても変わらないのだと改めて感じた。

「黒」の男に礼を告げて別れ、ダヒエの町を出た。そして、町の遠景を撮影するために、ダヒエを見下ろす丘へ向かった。

ベイルートの高層ビル群から地中海までを見渡せるその丘で撮影を始めてほどなく、アッバスのスマートフォンに、ダヒエが空爆されたとのニュースが入った。ファインダーを注意深くのぞくと、ダヒエの西の外れ、空港のすぐ近くに白い煙が上がっているのが見えた。

アッバスによれば、ヒズボラ幹部を狙った空爆だという。幹部は殺害され、家族も巻き込まれたとの情報が入ってきた。すぐに現場へ駆けつけようとアッバスに相談したが、外国人が近づくことはできないという。

つい先ほどまで滞在していた町に、目の前で爆弾が落ちたのだ。レバノン南部以外はさほど危険ではないと考えていたが、その見通しは完全に間違っていた。改めて、自分が戦場にいることを実感し戦慄が走った。

(つづく)

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