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司法が認めた沖縄戦の実態⑥ 母と弟は船とともに沈んだ

司法が認めた沖縄戦の実態⑥ 母と弟は船とともに沈んだ

沖縄戦の被害について国の責任を求めた裁判で、2018年、最高裁判所は、国の責任は認めなかったものの、沖縄戦の被害については原告の訴えを認める判決を出した。つまり司法が沖縄戦の悲惨な実態を認めたということだ。では、裁判所が認めた沖縄戦の実態とはどういうものだったのか。この裁判をフォローしてきたジャーナリストがシリーズで伝える6回目。( 文箭祥人 )

学童疎開船「対馬丸」

「息苦しさから解放されたいと願っているだろう」

原告の比嘉繁直さんは、1944年8月22日の「対馬丸事件」で母と弟2人を亡くした。アメリカ軍によって撃沈された学童疎開船の対馬丸だ。

遺骨はいまだ海底にある。上の言葉は比嘉さんが母、弟を思って陳情書で訴える言葉だ。

戦況が激しくなる中、日本政府は沖縄での地上戦を覚悟する。それによって本土での防衛ライン構築のための時間稼ぎをしようとした。その際、政府は沖縄の子供たちを本土に疎開させる措置をとる。

那覇市の中心部を海側に行ったところに、その対馬丸の記憶をとどめるための施設が有る。対馬丸記念館だ。そこに比嘉さんの母親と2人の弟の名前が刻まれていた。

「名護国民学校 比嘉常吉15歳 比嘉寛12歳」

「名護市 比嘉マツ56歳」

沖縄県から九州に向かった対馬丸はアメリカ軍の潜水艦による攻撃で沈没した。氏名がわかっている犠牲者は、疎開学童779人、教員と学童の世話人30人に加え、一般の疎開者が622人が乗船していた他、船員・砲兵隊員も45人乗っており、乗員・乗客は合計で1476人だった。

比嘉さんは陳述書に、疎開にいたる様子を次のように書いている。

「家計が厳しく中学校に進学することができず、17歳の時、名護町(現在の名護市)の郵便局で、郵便配達と簡易保険の集金の仕事をしていた。4か月前に、当時の若者が憧れていた海軍に願書を提出した。このため、疎開せず、沖縄にとどまることを決めた。母と弟2人は部落の区長に勧められて疎開することになった。疎開する前の晩、母に『もし海軍に入隊して鹿児島に来ることがあったら迎えに行くから』と言われた。この時は、二度と母に会えなくなるとは思ってもみなかった」。

沖縄にとどまることが比嘉さんを救ったが、対馬丸に乗船した母と弟は船とともに沈んだ。比嘉さんは疎開当日についても記している。

「疎開当日の1944年8月21日、朝食をすませ午前7時30分、郵便局に向かった。母と弟2人とはほとんど話をせず、弟2人に何かを伝えたということもなかった。名護からの疎開者は、疎開当日午前10時、軍のトラックで那覇に移動することになっていた。那覇に着いて、3人がどの疎開船に乗るのか、全く知らなかった」。

沖縄県民の疎開はどういう経緯で実施されたか、目的は何か、を確認したい。対馬丸記念館の公式ガイドブック(発行 2005年、監修 財団法人対馬丸記念会)には次のように書かれている。

19447月、サイパン島が占領された。「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で政府は、沖縄県や奄美大島、徳之島の年寄り、子ども、女性を島外へ疎開させる命令を出す。沖縄からは8万人を本土へ、2万人を台湾へ移すことになった。しかし、これは安全な場所へ避難させ、命を大切に守るというよりも、日本軍の食糧を確保し、戦闘の足手まといになる住民を戦場から退避させ、果てしなく続く戦争の次の戦力となる子どもを確保することが目的だった」。

軍、政府は、県民の生命より、戦争遂行を優先したのだ。

この対馬丸の撃沈については「対馬丸事件」と称される。それは民間人の乗った船を撃沈したアメリカ軍の犯罪性とともに、その「事件」を隠蔽しようとした当時の日本政府の対応などから来る。「事件」について、関係者には「決して語ってはいけない」と、厳重な箝口令が敷かれた。

「(事件について)一行たりとも、隣近所の者に知らしてはなりません。極秘です」と書かれた遺族の手紙も見つかっている。

「疎開船が沈められた」

比嘉さんは「事件」を知らないまま、郵便局で働いた。事件から3か月経った11月、名護町の役場が組織した護郷隊に動員された。そのため郵便局は辞めることになった。ここから比嘉さんは戦争に巻き込まれていく。

護郷隊は、陸軍中野学校出身者によって編成されたゲリラ戦部隊。中野学校は大本営直轄の秘密戦要員の養成機関だ。中野学校の出身者が沖縄に来て、沖縄県北部を中心に15歳から18歳の少年たちおよそ1000人を選抜し召集。戦場に向かわせた。

「事件」から5カ月が経った翌年2月、護郷隊を抜け、海軍に入隊することになった。そのとき、「疎開船が沈められた」という噂が流れた。

しかし、比嘉さんは、まさか母と弟2人が乗った船だとは思わず、気にとめなかった。

海軍入隊が決まり、那覇から輸送船で佐世保に向う。佐世保から列車で千葉県館山に移動。そこで少年兵の訓練所に入り、3か月教育を受けることになる。

そこへ横浜に住んでいた姉の澄子から手紙が届く。比嘉家は、大工だった父の常順が仕事中のけがが原因で早くに死亡していたため、澄子は内地で紡績の仕事に就いていた。

澄子の手紙に対馬丸のことが書かれていた。「事件」からおよそ半年が過ぎていた。

「対馬丸が撃沈された。母と弟2人が乗船していた」

比嘉さんはその時、自分が守ろうとしている国が自分たちを守ってくれない現実を悟った。こう振り返っている。

「もう二度と会えないと思うとともに、だれか一人でも近くの島で漂着して助かってくれないものかと思った」。

大きな後悔があると言う。

「内地での生活は大変だと思うが、体だけは大事にしてくださいという言葉だけでもかけておけばよかった」

悲劇として語られる「対馬丸事件」だが

戦後、この対馬丸は、悲劇として語り継がれている。悲劇として捉えてよいのだろうか。実は本当の「事件」は、そもそもの日本軍の計画にあったとも考えられる。「沖縄県史各論編6沖縄戦」(2017年3月10日、沖縄県発行)に次の様に書かれている。

「沖縄に創設された第32軍は、対馬丸が出航するまでの5か月間に43回の敵潜発見と日本の船舶沈没14隻を記録し、周辺海域の危険性を把握していた」

第32軍つまり日本軍は対馬丸撃沈の恐れをわかっていた。

さらに沖縄県史は指摘する。

「敵の潜水艦攻撃が小さな船にさえ容赦ないことを知りながら、県民にもそれらの事実を隠し、乗船を促した」

悲劇の背景に日本軍の考え方がみられる。日本軍は県民を守らないどころか、そもそも守ろうという意思さえ希薄だったということだ。

比嘉さんの陳述書に戻る。比嘉さんは少年兵の訓練所を出て、千葉県の館山近くにあった海軍の水上特攻基地に配属される。特攻隊の任務は5メートルぐらいのベニヤでできたボートの先端に300キロの爆弾を搭載して、敵艦に突撃するというものだ。何度も訓練を繰り返したが、終戦直前であり、特攻隊は実戦に投入されることはなかった。この基地で終戦を迎えた。

比嘉さんの陳述書の「館山近くにある水上特攻隊基地」を千葉県史で調べると、「戦争最末期に水上特攻艇・震洋の基地が現在の千葉県館山市洲崎・波左間などにあった」と記されていた。比嘉さんはこの水上特攻艇・震洋の隊員だと思われる。千葉県史には、「震洋は一人乗りと二人乗りがあり、ベニヤ板製で爆弾250キロを搭載。米軍が上陸するのを待ち伏せて攻撃する計画だった」とある。

米軍が本土上陸作戦を遂行すれば、水上特攻艇・震洋の隊員であった比嘉さんは命を落としていた。本土決戦になれば比嘉さんは死に、それを避ける形で母と弟2人が死んだということなのだろうか。戦争の理不尽さを感じざるを得ない。

遺族の訴えは続く

戦後75年、対馬丸は遺体とともに、海底に残されたままだ。比嘉さんは陳情書で訴える。

「母や弟は、大空の下、故郷沖縄に帰りたいと静かに願っていると思います」

そして、政府に対して要望する。

「科学技術や経済力から船体の引き揚げは可能とも言われている。国は一日も早く船体引き揚げを実現してほしい」

さらに訴えは続く。

「対馬丸事件」の遺族は1950年、遺族会を結成した。その後、慰霊祭を開いたり、補償や船体の引き揚げを求めて政府への要請行動を行った。その結果、政府は1962年から学童の遺族に見舞金の支給などを行っている。しかし、軍人や軍属の戦没者と比べるとその扱いに大きな差がある。

比嘉さんは陳述書の最後に訴える。

「国が戦争被害者に対して謝罪して、償いをし、平和の大事さを確認していただきたい」

(続く)

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