沖縄の住民は日本軍の行動に伴う形で戦場を逃げまどう。そして、その結果、住民の被害を拡げる。最高裁判所が認めた住民の陳述書からたどる沖縄戦の11回目は、日本軍とともに南部に逃げた住民の悲劇。(文箭祥人)
2019年に火災で延焼した世界遺産の首里城。国内外から多くの観光客が訪れる沖縄の文化財だ。沖縄戦のとき、その地下深くに軍司令部壕があった。総距離にして1キロメートルを超えるトンネルがあり、司令官をはじめ、総勢1000人を越す将兵、兵士が陣取っていた。
日本軍は首里の軍司令部壕を守るため、首里の北に位置する浦添村(現浦添市)に堅固な要塞を構築。攻めるアメリカ軍と守る日本軍の戦闘が繰り広げられ、浦添村は沖縄戦史上最も熾烈な戦場となった。住民の中には、「軍隊の近くにいた方が安全だ」と考えた人もかなりいたが、戦況が激しくなり、ほとんどの住民は南部へ避難を始めた。原告の比嘉ヨシ子さんの家族も南部へ向かった。
ヤギを連れて、南部へ避難
比嘉ヨシ子さんは沖縄戦当時、16歳。父と、次女きみ子13歳、生まれて9か月の三女サダコと一緒に南部へ避難を始めた。ほかにも家族がいた。一頭のヤギも一緒だ。
なぜ、ヤギを連れて行くのか、比嘉さんは陳述書に次のように書いている。
「出産したときに母を亡くしたサダコのため、ヤギも連れて避難しました」
生まれてすぐ母親を亡くしたサダコはヤギの乳で育ったという。
浦添から最南端の喜屋武岬まで、直線距離で約20キロの避難が始まる。比嘉さんは陳述書に避難中の様子を次のように書いている。
「アメリカ兵に見つからないように山の中を歩きました。山には水がなく、のどが渇いたことを覚えています」
避難は山道だけではなかった。
「場所によっては陸地ではなく、海の中を通りました」
さらに、避難は日中ではなかった。
「夜にしか移動できませんでした」
比嘉さん家族のように、浦添など中部から南部に避難した住民は多くいて、その体験談が多く残っている。そこには避難中の状況が書かれている。
「昼間は、空から爆弾が落ちてきて、海から艦砲射撃があり、陸から戦車砲の弾が、雨あられのように降ってきました」
地図もなければ、行先を示す標識もない。
「移動は夜に限られ、真っ暗ななか、どこをどう歩いたのか、わからない状態でした」
安全な場所はどこか、知るすべはなかった。
「どこがどういう戦況なのか、情報は得られません」
ある日、夕方になり、比嘉さん家族が身を潜めていた橋の下から移動をはじめようとした時、妹のきみ子が負傷する。比嘉さんは陳述書に次のように書いている。
「どこから飛んできたのか、何かの破片がきみ子の右足の膝にあたりました」
このけができみ子は歩くことができなくなった。きみ子は父に背負われ、比嘉さん家族は避難を続ける。
数日後、さらに南に向かう途中、きみ子は2回目の傷を負う。
「首の後ろに破片を受けてけがをしました」
避難を続け、南部の糸満に到着。ヤギを家族と少し離れた場所につないでいた。そのとき予期せぬことが起こった。比嘉さんは次のように陳述書に書いている。
「気がついたときには日本兵がヤギの皮をはいでいました。勝手にヤギを殺したんです」
サダコに乳を飲ませるために浦添から糸満まで一緒に連れて来たヤギを日本兵が殺した。
「怒りました。でもヤギが戻るわけではありませんでした」
ヤギがいなくなってからは、父がイモをつぶしてサダコに食べさせた。避難中で、マッチもなく、火を起こすことが出来なかった。生のイモをつぶしただけだった。
「サダコは体調を壊して、下痢を繰り返しました」
沖縄の最南端、喜屋武岬近くの山に避難したとき、「出てくるように」の日本語の呼びかけがあった。この声に従い、山から出た。広場に多くの人たちが集まっていた。アメリカ兵が目に入った。声は投降を呼びかけたアメリカ軍のものだった。そして、比嘉さん家族はアメリカ軍の収容所に入れられた。
収容所に入れられた2人の妹はどうなったのか。比嘉さんが陳述書に記している。
「きみ子は大雨が降った日に体を冷やしたのか、2日間高熱が続き、亡くなりました」
ヤギを失ったサダコはどうなったか。きみ子が亡くなってすぐのことだ。
「サダコはヤギをなくしてから、ずっと体調不良でした。栄養失調と下痢で亡くなりました」
きみ子とサダコは収容所から少し離れた場所に埋葬された。父が戦後、2人の遺骨をとりに行った。
浦添市史によると、沖縄戦当時、浦添村の人口は約9、200人、そのうち44%にあたる4、112人が沖縄戦で亡くなった。浦添市史には、住民の死亡時期を調査した結果が書かれている。
浦添エリアで日米の攻防戦が繰り返された約1か月間をみると、浦添村住民の全死亡者の27%にあたる人たちがこの時期に亡くなっている。攻防戦後の約1か月では44%だ。
つまり、日米攻防戦の戦場となった浦添村で亡くなった住民より、浦添村から南部に避難して亡くなった住民の方が多いことになる。浦添村での攻防戦に敗北した日本軍は、司令部のある首里を決戦場とはしなかった。日本軍は、アメリカ軍の日本本土上陸を遅らせる時間稼ぎのため、南部に移動した。そして、南部で日米の戦闘が起こり、避難してきた多くの浦添村住民が亡くなった。日本軍の南部への移動が住民被害を広げたことになる。
戸籍に載らない犠牲者
戦後になって、比嘉さんは心の不調を訴える。
「自分でものを考えなくても、考えが入ってくる感じがします。特に、気持ちがさびしくなると、嫌なことが頭に入ってきます。こういうときは、自分に気合をかけます」
戦後70年にあたる2015年、比嘉さんは精神科医の診察を受け、心の不調の原因が判明した。
「戦争の体験に関連した記憶が再想起している」
さらに、比嘉さんは、戦争中に起こったことでまだ解決していないことがあると陳述書に書いている。
「きみ子とサダコのことが、戸籍に載っていません」
沖縄戦で各市町村が保管していた戸籍はすべて焼失した。さらに、戸籍に記載されている内容を知る戸主の多くが亡くなった。こうした状況で沖縄での戸籍の再製が始まる。
1947年、臨時戸籍が作られた。食糧などの配給のためにつくられたもので、人名簿程度に過ぎなかった。貧困状態に強いられるなか、少しでも多くの配給物資を得るため、戸籍上、女性が男性となったり、老人が青年になったり、仮装夫婦が出来たりして、極めて不正確だったという。
1953年、戸籍整備法が制定された。これにより、戸籍を作り直す本格的な作業が始まった。各市町村自らが戸籍を作り直すのではなく、住民が役場に申し入れをして、はじめて戸籍再製が始まる。申し出がなければ、戸籍はいつまでたっても再製されない。
当時の琉球政府の担当課長がラジオを通して戸籍整備法の必要性を住民に訴えた。その内容が那覇市発行の「那覇市の戸籍 戦災からのあゆみ」に掲載されている。
「戸籍整備法は日本の戸籍編製には全く前例を見ない特殊な方法でありますが、沖縄の戦争被害が、その前例を見ないことと同じように、是非沖縄の戸籍の現況上必要な規定だと思います」
比嘉さんの父は、沖縄戦で亡くなったきみ子とサダコの戸籍の作り直しの申し出を行わなかった。比嘉さんは陳述書に次のように書いている。
「できるだけ早く戸籍に記載させるために申し立てをするつもりです」