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【司法が認めた沖縄戦の実態⑭】忘れられない壕の臭い

【司法が認めた沖縄戦の実態⑭】忘れられない壕の臭い

6月23日、沖縄は「慰霊の日」を迎える。1945年のその日、沖縄で日本軍による組織的な戦闘が終わった。第二次世界大戦において、日本固有の領土の中で唯一となる地上戦を経験した沖縄。その苦しみは今も続いている。この連載は、その記録だ。(文箭祥人)

「梅雨時になると、避難していた壕のカビくさい臭いを思い出すので、つらいです」

原告の古波倉政子(こはくら まさこ)さんは言う。6月23日の沖縄「慰霊の日」を、古波倉さんはその「つらい」思いを抱いて迎える。

1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸、当時3歳だった古波倉さんは、母と兄3人で那覇から南部へ避難する。行き先は糸満市真壁にある母の実家。

那覇と真壁は幹線道路でつながっていて、大勢の住民がこの道を歩いて真壁に集まっていった。

忘れられない壕の臭い

真壁にたどり着いて、しばらく母の実家で暮らしていたが、その後、戦争が激しくなり、アメリカ軍の砲撃で実家が燃えてしまう。そして、古波倉さん家族3人は、壕を探して転々とすることとなる。

古波倉政子さんは陳述書に壕での出来事を書いている。

「子どもが泣くから出ていけ」

先に壕に入っていた住民からこう言われ、壕から追い出された。

「入ることはできない」

別の壕では、こう言われ、壕に入ることすらできなかった。

「口のなかにおしめを突っ込まれたこともありました」

壕の外に泣く声が漏れるとアメリカ軍に見つかってしまう。そのため、幼い古波倉さんを黙らせる処置がされたという。

5つほどの壕をまわった後、6月はじめ、真壁近くの糸洲の壕に入ることができた。すでに親戚が入っていて、無理やりに入ることができた。すでに100人以上の住民が逃げ込んでいた。

この壕の臭いは、今でも記憶から消えないという。

「壕のなかは、非常にカビ臭かったことを覚えています。湿度も高く、独特の臭いだったので、あの臭いは今でも思い出します」

このころ、南部には、日本軍3万と推定10万人の住民が入り混じっていて、そこをアメリカ軍は陸、海、空から攻撃した。沖縄県史には、「米軍の容赦ない砲爆撃は、6月だけで680万発、一人あたり52発といわれるほど激しかった」と記載されている。多くの犠牲者が出た。こうした中、古波倉さんは壕の中で耐えた。

そして、6月20日ごろ、古波倉さんらが避難している壕に向かって、アメリカ軍がマイクで、投降するよう、呼びかける。牛島満司令官が自決し日本軍の組織的戦闘が終結するのは6月23日。その直前の出来事だ。だが、古波倉さんはこの史実を知るはずもない。

壕の様子を古波倉さんは次のように陳述書に書いている。

「みんなが、壕から出て行くと殺されるとささやき、身を縮めて固まっていました」

投降の呼びかけは1時間ほど続いたが、壕から出る住民はいなかった。そして、アメリカ軍は壕のなかに弾を投げ込んだ。

「大きな被害がなく、皆は壕の中で我慢していました」

それから10分から20分ぐらい経過して、アメリカ軍は再度、弾を投げ入れた。1回目より威力の強いものだった。

「私は母に抱かれて、壕の入口から20メートルくらい奥のところにいましたが、髪が全部燃え、顔面は目も鼻も口も大やけど、右腕から背中、お尻にかけて全身もやけどしました」

母も足などに大やけどを負った。その母が壕から飛び出す。

「子どもがこんな大やけどになって、中にいても死ぬんだったら、外に出た方がいいと母が言って、壕を出ました」

壕から最初に出たのは母だった。壕にいた住民は後に続いた。

忘れられないカルキ水の臭い

壕の外に出ると、鉄兜をかぶり、カーキ色の軍服を着たアメリカ兵5人が立っていた。

大やけどを負った古波倉さんはアメリカ兵に向かって、こう訴える。

「水が欲しい」

その水は、古波倉さんがこれまで臭ったことのない、塩素で消毒されたカルキ臭がした。

「母は『この水には毒が入っている』と言いました。そして、『自分が先に飲む』と言って、飲みました」

母に異常は起きなかった。

「母は『私の後からお前が死ぬなら一緒』だと言って、私にも水を飲ませました」

古波倉さんは、ひしゃくで2杯の水を飲んだ。カルキの臭いがする水の記憶が今も消えない。

「あの塩素臭の強い水のことは今でも、忘れられません」

消えないトラウマ

古波倉さんはアメリカ軍の収容所に連れて行かれ、軍の病院で治療を受ける。しかし、やけどで目を負傷し、3か月間は目を開けることができなかった。その後、けがはある程度回復したが、顔のやけどは残った。

収容所から那覇に戻ってから、顔のやけどで、祖母が母を責める。

「祖母が、母に向かって、あんたが連れて逃げたから、結婚もできない顔の子にしてしまったと言って、責めました」

古波倉さんは、18歳になったとき、母の勧めで顔の整形手術を受けたが、傷跡はかなり残った。

「ショックを受けました。今でも人前に出るのは遠慮してしまいます」

古波倉さんが負ったのは顔のやけどだけでなかった。精神に傷を負っていた。

「夜中の2時ごろに必ず目が覚めます。夢を見る。昼夜を問わず戦時の記憶が蘇ってきます」

「あの時の火薬の臭いを連想するから、花火が怖い、ジェット機の音が嫌い、マッチがすれません」

戦後70年経った2015年、古波倉さんは精神科医の診察を受け、これらの症状は沖縄戦の体験が由来する、戦争PTSDだと診断された。

さらに、次のような症状を訴える。

「どうして、自分が生き残ったのか分らない」

この症状に対して診断が下る。

「亡くなった人を多く見てしまったことのトラウマを、合理的な説明の下に、過去の記憶ファイルに納めることができないでいる。『生存者罪悪感』を抱いている」

南部の最激戦地であまりにも多くの死体をみたため、なぜ自分は生きているのか、そのわけが整理できず、生きることに罪悪感を抱いているのだ。

梅雨になると古波倉さんが思い出す、カビくさい壕の臭いとアメリカ軍の塩素の強い水。

これについても、精神科医は次のように診断した。

「5月、6月という季節の、湿度や気温によって、戦争記憶が活性化される」

古波倉さんは、梅雨時期のたびに、臭いの記憶がよみがえり、つらい思いに襲われる。これからも、このつらさから逃げることは困難だろう。

国に見放される被害者

古波倉さんは、戦争被害者を援護する援護法の適用を求め、親族が担当部署に問合せをするが、受け入れられなかった。

「生きているならば、認められない」

こういう回答であったという。いまも、古波倉さんは補償を国から受けていない。

古波倉さんは陳述書の最後にこう記している。

「国は、沖縄戦被害者の苦労は、その時代を生きた人の当たり前の苦労だと思っているのでしょうか。亡くなっている人もいます」

平和の礎

6月23日、糸満市摩文仁の平和祈念公園で、沖縄県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行われ、内閣総理大臣も参列する。沖縄戦で亡くなった一般の住民に対して国は追悼する。しかし、補償はおこなわない。
(つづく)

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