中国の動きから目が離せない。それはこの国がアメリカを追い抜くほどの超大国になろうとしているからではなく、香港を含めて国内で民主化を求める人々に容赦ない弾圧を加えているからだ。それを中国の主権の問題だと片付ける人もいるが、主権による人権弾圧は許容されるべきなのか?日本テレビ中国総局長などを歴任し現在も中国で取材にあたるインファクトの宮崎紀秀がシリーズで伝える。(宮崎紀秀)
「行くよ」と手を振った最後の姿
2018年9月。北京市内のあるマンションを訪ねた。エレベーターで8階まで上がって、その階に並ぶ白いドアの一つをノックすると、女性が笑顔で迎えてくれた。
事前に訪問を告げていたためだろう。まだ午前中だったが、彼女は、すでにばっちりメイクをしていた。濃く引いた眉は、二重まぶたの大きな瞳を一層引き立て、オレンジ色がかった淡い色の口紅は、白い肌によく映えた。栗色に染めたショートヘアーも、活動的な彼女によく似合っていた。
これから始まる切ない物語の主人公としては、あまりに綺麗で、正直少し戸惑った。だが、それはこちらの勝手な思い込みが原因である。本来ならば、彼女も他の同年代の女性がするように、化粧やお洒落を楽しみ、幸せな日々を享受してしかるべき、なのだから。
女性の名は李文足。当時33歳。
家に通してもらった。綺麗に整理されたリビングルームとは別に5歳になる一人息子、泉泉の部屋があった。そこにはプリントされた家族の写真が沢山貼られていた。
李文足は、その中の一枚を指差した。
「駅で別れた時、彼は『行くよ』と手を振って行きました。それ以来、今まで離れ離れになっています」
写真の中にはメガネをかけた男性が写っている。夫、王全璋(撮影当時39歳)。職業は弁護士。おそらく電車の中で撮ったのだろう。写真の中の王全璋は、隣の席の上に立ち上がっている、まだ幼い息子を優しげに見守っていた。
これが、夫の姿を捉えた最後の一枚になったという。夫はこの写真の1か月後、7月10日に音信不通となった。
李文足は、「それっきりですよ、ハハハ」と、乾いた声で笑った。
彼女はかつて「毎日泣いてばかりはいられませんから」と話したことがある。確かに息子と二人で夫の帰りを待つ生活も、すでに3年を超えた。敢えて明るく振る舞わなければ、やっていられないのかもしれない。
「こうやって写真を見ながら、パパの姿を覚えていてほしい…」
張りのある声が、ふと途切れた。彼女は、大きな瞳で写真を見つめながら、ふー、と長い溜息をついた。
2015年7月9日を境に、中国全土で人権派と呼ばれる弁護士や活動家が次々と失踪した。後に、これが中国当局による一斉拘束だったことが明らかになる。王全璋もその一人だったが、当初、家族がそれを知る術もなかった。合わせて300人以上が取り調べなどなんらかの圧力を受けたとされる。15人が起訴された。
(続く)