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【司法が認めた沖縄戦の実体㉒】目の前に赤く日焼けしたアメリカ兵が立っていた

【司法が認めた沖縄戦の実体㉒】目の前に赤く日焼けしたアメリカ兵が立っていた

復帰50年を迎えた沖縄。戦後、なぜ沖縄は施政権の回復が遅れたのか?その疑問はなぜ、沖縄で地上戦が行われたのかという疑問にも直結する。InFactは引き続き愚直に沖縄戦の事実を書き留めていく。(取材、写真/文箭祥人)

沖縄戦当時、原告の大西正子さんは13歳。通っていた真和志村(現在の那覇市)の大道(だいどう)国民学校では1945年3月23日、卒業式が行われることになっていた。アメリカ軍沖縄本島上陸の約1週間前だ。大西さんは陳述書にこう書いている。

「卒業式を心待ちにしていました。しかし、その朝になると艦砲射撃が始まったためできなくなりました」

大西さんは答辞を読むよう先生に言われていて、「しっかり読まなくちゃー」と張り切っていたという。しかし、答辞も卒業式も幻になってしまった。

このころ、大西さんは、両親と姉、姪の五人で自宅裏の壕に避難していた。「4月1日にアメリカ軍が上陸した」と知らされ、自宅の壕を離れ、近くにある大きな自然壕に移動する。ところが、2歳の姪がよく泣き、壕の中にいた人たちから「泣き声がB29に聞こえる」と怒られ、別の壕に移らざるを得なくなった。

5月のある日、大西さんが姉と夕食の準備をしていたところを、アメリカ軍の艦砲射撃が襲う。大西さんは陳述書にこの時の様子を綴っている。

「ヒュルヒュル、ドカンと艦砲射撃が落ちました。何もかも吹き飛ばされました」

大西さんと姉は無事だったが、近くにいた人に弾が命中した。

「肉片がそこら中に散っていました。肉片は荷物にもくっ付いていました」

大西さんがはじめて見た戦場だ。

「はじめて死人を目の当たりにして、震え上がりました」

2、3日後、日本兵が刀を振り上げながら、壕に現れる。そして、次の言葉をわめきちらす。

「すぐ立ち退け」

大西さん家族は背負えるだけの荷物を持ち壕を出て、南へ向う。

「いつか再び平和な暮らしが出来ることを願いつつ、我が家の近くまで行きました。そして、心の中で、『また必ず帰ってくるから』と繰り返しました」

アメリカ軍の攻撃が続くなか、あてどもなく南部へ下る。

6月に入った。沖縄は雨期に入っていた。移動中の様子を陳述書にこう書いている。

「空からは雨と戦闘機の激しい銃撃と爆撃がありました。海からは艦砲射撃が襲ってきました。その中を無言で誰かの後をついて歩きました」

負傷した日本兵もいた。

「泥の中を両手を失くした兵士がはって行くのを見ました。でも、だれも手を貸してあげませんでした。おびただしい負傷者とやせて青白い顔のおびえた住民たちがただあてどもなく歩き、足を止めることを知りませんでした」

戦況はわからなかったという。

「知りたいと思っても、誰も確かなことを知りませんでした」

南部の糸満近くにたどりついた時、トンボと呼ばれたアメリカ軍の偵察機が上空を飛ぶ。

「偵察機がグルグルと2、3回まわると、海から激しい砲撃を浴びせられました。あっという間に、たくさんの人が死にました」

この時、大西さんは足をけがし、歩くことが出来なくなる。

大西さん家族は離れ離れになったが、お互いの生存を確認できた。この時亡くなった人たちを埋葬したという。

「自分たちも何時やられるかもしれないから、悲しむ余裕はありませんでした」

その夜、「もっと南へ行こう」と避難していた誰かが言い、みんながそれに従い、歩き出す。

「途中、道端のあちこちで死体をみました。亡くなった母親の上にまとわりついている赤ちゃんもいました」

大西さんは当時を振り返って、身体的、精神的な疲労が限界に達していて、心が麻痺していたのだろうという。

「目に入ってくる悲惨な光景も何とも思わなくなっていました」

長い長い人の列はただ黙々と南へ向う。

「どこかで休みたい。でもみんなにはぐれてしまっては…そういう不安もありました」

アメリカ軍の攻撃は止まらない。

「時折、照明弾が上がって、続いて、艦砲射撃の嵐が襲ってきました」

大西さん家族は、とうとう喜屋武岬の浜辺に着く。冒頭の写真は現在のその場だ。平和祈念公園となっている場だ。

「追い詰められ、もうこれ以上南へは行けません。後ろから何が来ようと、じっとここにいるしかないのです」

大西さんの父が、亜熱帯地域に生息しパイナップルに似た果実をつけるアダンの根っこに穴を掘り、家族は息をこらして、身を寄せ合った。夕闇になって近くの畑へ芋掘りに行って、海岸の潮水で炊いて食べて飢えをしのいだ。

そこに、またもや軍刀を振りかざした日本兵が現れる。

「何か食べものはないか。食べものを出せ」

大切に持っていた米は奪い取られた。

その後、大西さんと母、姪の3人は、父と姉から離れて別の場所に避難した。5人で一緒に居ることができる場所はなかったからだ。夕方に姉が大西さんらの避難場所に来て、お互いの無事を確認した。幾日か経った6月18日のこと。

「この日の昼は、特に砲撃が激しかったです」

夜になっても、姉は大西さんらのところに姿を見せなかった。

「一晩中、心配でした。もしや、昼の激しかった砲撃にみんなやられたのでは?いや、どこか安全な場所に移ったのでは?と思いつつ朝を迎えました」

砲撃は止んで、不気味な静けさを感じたという。そして、目の前に赤く日焼けしたアメリカ兵が立っていた。

「あまりの恐ろしさに声も出ませんでした。何やら話かけてはいますが、解りませんでした」

視界には木の枝に白い布をつけて、おそるおそる歩く人。母が大西さんをおんぶして外へ出る。

「とうとう捕虜になったのです」

大西さんら避難者は一か所に集められた。しかし、そこに父と姉の姿はなかった。

「みんな一度に死んでしまったのでした。本当にみんな死んでしまったのでしょうか。いや、どこかで捕虜になって元気でいてくれるといいのですが…」

その日のうちに、糸満の兼城(かねぐすく)に連れて行かれ、そこで1泊し、翌日にトラックで中部の宜野座に移動させられる。大西さんは母と姪と離れ、病院に運ばれる。1か月後、大西さんは退院し、母と姪の元に帰る。

戦後2年の1947年、大西さんの叔父たちが、父と姉が死亡した場所を確認し、遺骨を拾ってきた。

「母と私と姪は、あるいはどこかで…と心の片隅に残っていた望みを絶たれ、はじめて思い切り泣きました」

父と姉だけではない、日本軍に徴用された二人の兄は戦死した。さらに・・・。

「もう一人姉がいました。長女です。結婚して、子どもが五人いました。一家七人全員が亡くなり、一家全滅となりました」

陳述書に姉家族の一家全滅の状況は記されていない。沖縄戦では、一家が全滅したケースが多い。しかしそれがどのような死だったのかは正確に把握されているわけではない。沖縄県は、「何家族が一家全滅したのか、把握していない」とのことだ。

大西さんは戦後、負傷した足の手術を何回も受けた。女性として致命的な箇所に傷痕が残っているという。

戦後、成人した大西さんは沖縄戦の体験を後世に語り継ぐため、修学旅行生を対象に、沖縄戦体験を語る活動を行ってきた。大西さんのもとには、本土の学生からお礼や励ましの手紙が届くという。

「手紙をいただいたときは、戦争体験を語り、平和な世の中をつくりましょうと話してよかったと、心も安らぎます」

大西さんの活動はこれに止まらない。「沖縄いのちの電話」運営委員長を務めた。いのちの電話は、助けや励ましを求める一人一人と電話で対話し、特に自殺予防を目的とした団体。

「沖縄いのちの電話開局30周年記念誌」(2007年)に大西さんは文章を寄せている。

「いのちという言葉が先の戦争の惨禍と重なってとても重く感じられ、心と体に強く染みています」

大西さんは陳述書の最後に、こう訴える。

「戦争が始まる前は、一家一族、元気で裕福な暮らしをし、少女時代は大きな夢を抱いて学校に通っていました。しかし、戦争は、その平穏な生活と夢を粉々に打ち砕きました。国は再び戦争をしてほしくありません」

そして、国に訴える。

「戦争を始めた国は、私たち民間人被害者に対しては、謝罪も償いもありません。その反省としての謝罪をし、その証を示してほしいと思っています」

(つづく)

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