
レバノンがニュースにならなくなっている。しかしそこは今も戦場だ。新田義貴はベテランの戦場ジャーナリストとともにレバノンの戦場を駆け巡る。自分たちの伝える内容が必ず人々に伝わることを信じて。(取材・写真/新田義貴)
5月29日、僕と遠藤正雄さんはレバノン南部への入り口となる町、サイダへ向かった。ベイルートから南に車を走らせること30分。紀元前、地中海交易で栄えた都市国家フェニキアの時代にはシドンと呼ばれた、幾千年の記憶を宿す町だ。ここに駐留するレバノン軍の基地を訪ねる。目的はただひとつ、南部の戦場へ入るための通行許可証を手にすることだった。

情報省が発行する取材許可証とは別に、南部の戦闘地域へ足を踏み入れるには、軍が発行する通行許可証が要る。この一枚がなければ、先へは進めない。
入り口でスマートフォンを預け、基地内の事務所へ向かう。名前を告げるが、返ってきたのは「まだ発給されていない」という素っ気ない一言だった。レバノンに到着したその日のうちに申請を済ませていたのだが、祝日を挟んだせいか手続きは遅々として進まない。その間にもイスラエル軍の攻撃は激しさを増し、南部へ通じる道がいつ閉ざされてもおかしくない。一刻も早く前線へ――そう逸る気持ちと焦燥が入り混じるが、許可証なしでは一歩たりとも動けない。
この感覚は読者の皆さんから見ればジャーナリストの独善に映るだろう。紛争が起きれば誰よりも早く現場に入ろうと競い合うのがわれわれの習性でもある。そこにはある種の功名心があることは認めるが、一刻も早く真実を世界に伝えたいという思いがあることもまた事実だ。だから批判を覚悟で書く。それは戦場ジャーナリストの矜持なのだと。
翌日、もう一度基地を訪ねると通行許可証が手渡された。「許可証」といっても、小さなメモ用紙に手書きで番号が走り書きされているだけの、拍子抜けするほど簡素なものだ。だが、このたった一枚の紙切れこそが、僕らにとっての命綱であり、前線へ通じる唯一のパスポートだった。

(許可書)
5月31日、いよいよレバノン南部へ向かう。今回、僕らを案内するフィクサーはアッバスではない。ベイルートとその周辺しか担当しない彼は、危険な戦場への同行を頑として承諾しなかったのだ。代わって南部に同行するのは、元レバノン軍の軍人ハムザ。南部出身で、この土地の道を知り尽くしているという。
「地中海沿いの道はイスラエル軍に攻撃される危険が高い。迂回したほうがいい。」
ハムザの判断で、遠回りにはなるが安全を優先し、東部のベカー高原を抜けて南部を目指すことにした。旧約聖書にも登場するヘルモン山をはじめ、雄大な景色が車窓を流れていく。途中、レバノン軍の検問所で車を止められた。もらったばかりの通行許可証を差し出すと、緊張の一瞬ののち、無事に通過できた。
ベイルートを出発して3時間、前線に近いエベル・サキという村までたどり着く。だが、ここで恐れていた事態が現実になった。この村より先は、軍によって通行止めにされていたのだ。すぐ先の町が空爆され、黒い煙が立ちのぼっているのが遠くに見える。この日はここまでだった。僕らは重い気持ちを抱えたままベイルートへと引き返した。
翌日も、南部への道は閉ざされたままだった。焦りが、じわじわと胸を締めつける。わざわざレバノンまで来て、前線で何が起きているのかを一度も取材できないまま終わるかもしれない――そんな思いが頭をよぎる。その一方で、きっと何とかなるはずだと信じたがる自分もいる。相反する二つの思いを抱えながら、避難民キャンプやかつてのレバノン内戦の爪痕を撮影し、ベイルートでできる取材を続けた。そして夜、ハムザから一報が入る。南部への道が開いたという。
6月2日早朝、再びハムザの車で南部を目指す。今度は地中海沿いの最短ルートを走る。途中、スーパーで朝食のクロワッサンを買う。レバノンはフランスの影響下に置かれた時代が20年余り続いたせいか、クロワッサンは本場と言って良い。駐車場でハムザが取り出したのは「PRESS」と大書された巨大なステッカーだ。それをボンネットに貼りつける。これから先は、それが盾になるかどうかも分からないが、最善を尽くすということだろう。

昼前、リタニ川にたどり着いた。川に架かる橋は、イスラエル軍の攻撃によって無残に破壊されている。この川を越えれば、その先は激しい戦闘地域だ。僕も遠藤さんも、ここで防弾ベストとヘルメットを身につけた。この頃イスラエル軍は、リタニ川以南の占領地域を自国の安全のための「緩衝地帯」とすると一方的に宣言し、その境界線を「イエローライン」と名づけていた。川を背景に、遠藤さんのリポートを撮影する。
昼過ぎ、南部の要衝スールの町に入った。古代フェニキアの時代にはティレと呼ばれた、かつては美しい交易都市だった町だという。町へ続く道には、ヒズボラの旗が途切れることなく続いている。レバノン南部にはシーア派の住民が多く暮らし、この一帯はヒズボラの強い影響下にある。
僕らはすぐに町の中心部へ向かった。そこは廃墟と化していた。前夜、イスラエル軍による複数のロケット攻撃を受け、死者4名、負傷者50名以上を出したジャバル・アメル病院を訪れた。爆風で建物の2階と3階が大きく破壊されていた。取材している間にも負傷した救急患者がひっきりなしに運び込まれてくる。スタッフの表情には、疲労と恐怖とともに苛立ちが色濃くにじんでいるように感じられた。外科医長のアッバス医師に話を聞いた。
「通常の医療活動をしていたところに、空爆がありました。パニックになる間さえありませんでした。イスラエルがしていることは、生命のあらゆる痕跡を消し去ることです。」
病院の外に出て、破壊された建物の前で住民へのインタビューを撮影していたときだった。遠藤さんが叫んだ。
「来た! 来た! 来た!」
とっさに瓦礫の陰に身を隠す。心臓が激しく鳴っていた。数秒後、恐る恐る外に出てみると、前方に黒煙が立ちのぼっているのが見えた。目視ではここから1キロほど離れた場所にミサイルが着弾したようだ。すぐさま現場へ向かおうとしたが、我々に付き添っていたヒズボラの監視員がそれを許さなかった。

取材を終え、町のはずれにある海辺のリゾートホテルにチェックインした。本来なら観光客でにぎわうはずのこのホテルも、今はジャーナリスト専用の宿泊施設と化している。地元のテレビ局5社ほどがプールサイドにカメラを並べ、撮影した空爆の惨状をリポートを交えて送り続けていた。
夕暮れ時、ホテルの芝生の庭を歩いていると、そこにも大勢の避難民の姿があった。家を破壊され、一時的にホテルの空き部屋へ身を寄せているのだという。目につくのは女性と子供の姿ばかりだ。戦争さえなければ、海辺に沈む夕日はきっと美しかったに違いない。だがこの日、その光景はただただ物悲しく、僕の目に焼きついた。
夜、戦地取材の疲れと張りつめた緊張の中、イスラエル軍の偵察ドローンが低く唸る音を耳にしながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
(つづく)
【新田義貴のレバノン取材メモ③ 激戦の南部へ】
5月29日、僕と遠藤さんはレバノン南部への入り口となる町、サイダへ向かった。ベイルートから車を走らせること30分。紀元前、地中海交易で栄えた都市国家フェニキアの時代にはシドンと呼ばれた、幾千年の記憶を宿す町だ。ここに駐留するレバノン軍の基地を訪ねる。目的はただひとつ、南部の戦場へ入るための通行許可証を手にすることだった。
(地図)
情報省が発行する取材許可証とは別に、南部の戦闘地域へ足を踏み入れるには、軍が発行する通行許可証が要る。この一枚がなければ、先へは進めない。
入り口でスマートフォンを預け、基地内の事務所へ向かう。名前を告げるが、返ってきたのは「まだ発給されていない」という素っ気ない一言だった。レバノンに到着したその日のうちに申請を済ませていたのだが、祝日を挟んだせいか手続きは遅々として進まない。その間にもイスラエル軍の攻撃は激しさを増し、南部へ通じる道がいつ閉ざされてもおかしくない。一刻も早く前線へ――そう逸る気持ちと焦燥が入り混じるが、許可証なしでは一歩たりとも動けない。
この感覚は一般の方から見ればジャーナリストの独善に映るかもしれない。紛争が起きれば誰よりも早く現場に入ろうと競い合うのがわれわれの習性でもある。そこにはある種の功名心があるのかもしれないが、一刻も早く真実を世界に伝えたいという思いがあることもまた事実なのである。
翌日、もう一度基地を訪ねると通行許可証が手渡された。「許可証」といっても、小さなメモ用紙に手書きで番号が走り書きされているだけの、拍子抜けするほど簡素なものだ。だが、このたった一枚の紙切れこそが、僕らにとっての命綱であり、前線へ通じる唯一のパスポートだった。
(許可書)
5月31日、いよいよレバノン南部へ向かう。今回、僕らを案内するフィクサーはアッバスではない。ベイルートとその周辺しか担当しない彼は、危険な戦場への同行を頑として承諾しなかったのだ。代わって南部に同行するのは、元レバノン軍の軍人ハムザ。南部出身で、この土地の道を知り尽くしているという。
「地中海沿いの道はイスラエル軍に攻撃される危険が高い。迂回したほうがいい。」
ハムザの判断で、遠回りにはなるが安全を優先し、東部のベカー高原を抜けて南部を目指すことにした。旧約聖書にも登場するヘルモン山をはじめ、雄大な景色が車窓を流れていく。途中、レバノン軍の検問所で車を止められた。もらったばかりの通行許可証を差し出すと、緊張の一瞬ののち、無事に通過できた。
ベイルートを出発して3時間、前線に近いエベル・サキという村までたどり着く。だが、ここで恐れていた事態が現実になった。この村より先は、軍によって通行止めにされていたのだ。すぐ先の町が空爆され、黒い煙が立ちのぼっているのが遠くに見える。この日はここまでだった。僕らは重い気持ちを抱えたままベイルートへと引き返した。
翌日も、南部への道は閉ざされたままだった。焦りが、じわじわと胸を締めつける。わざわざレバノンまで来て、前線で何が起きているのかを一度も取材できないまま終わるかもしれない――そんな思いが頭をよぎる。その一方で、きっと何とかなるはずだと信じたがる自分もいる。相反する二つの思いを抱えながら、避難民キャンプやかつてのレバノン内戦の爪痕を撮影し、ベイルートでできる取材を続けた。そして夜、ハムザから一報が入る。南部への道が開いたという。
6月2日早朝、再びハムザの車で南部を目指す。今度は地中海沿いの最短ルートを走る。途中、スーパーで朝食のクロワッサンを買う。レバノンはフランスの影響下に置かれた時代が20年余り続いたせいか、クロワッサンは本場と言って良い。駐車場でハムザが取り出したのは「PRESS」と大書された巨大なステッカーだ。それをボンネットに貼りつける。これから先は、それが盾になるかどうかも分からない。昼前、リタニ川にたどり着いた。川に架かる橋は、イスラエル軍の攻撃によって無残に破壊されている。この川を越えれば、その先は激しい戦闘地域だ。僕も遠藤さんも、ここで防弾ベストとヘルメットを身につけた。この頃イスラエル軍は、リタニ川以南の占領地域を自国の安全のための「緩衝地帯」とすると一方的に宣言し、その境界線を「イエローライン」と名づけていた。川を背景に、遠藤さんのリポートを撮影する。
昼過ぎ、南部の要衝スールの町に入った。古代フェニキアの時代にはティレと呼ばれた、かつては美しい交易都市だった町だという。町へ続く道には、ヒズボラの旗が途切れることなく続いている。レバノン南部にはシーア派の住民が多く暮らし、この一帯はヒズボラの強い影響下にある。
僕らはすぐに町の中心部へ向かった。そこは廃墟と化していた。前夜、イスラエル軍による複数のロケット攻撃を受け、死者4名、負傷者50名以上を出したジャバル・アメル病院を訪れた。爆風で建物の2階と3階が大きく破壊されていた。取材している間にも負傷した救急患者がひっきりなしに運び込まれてくる。スタッフの表情には、疲労と恐怖とともに苛立ちが色濃くにじんでいるように感じられた。外科医長のアッバス医師に話を聞いた。
「通常の医療活動をしていたところに、空爆がありました。パニックになる間さえありませんでした。イスラエルがしていることは、生命のあらゆる痕跡を消し去ることです。」
病院の外に出て、破壊された建物の前で住民へのインタビューを撮影していたときだった。遠藤さんが叫んだ。
「来た! 来た! 来た!」
とっさに瓦礫の陰に身を隠す。心臓が激しく鳴っていた。数秒後、恐る恐る外に出てみると、前方に黒煙が立ちのぼっているのが見えた。目視ではここから1キロと離れていないほど離れた場所にミサイルが着弾したようだ。すぐさま現場へ向かおうとしたが、我々に付き添っていたヒズボラの監視員がそれを許さなかった。
取材を終え、町のはずれにある海辺のリゾートホテルにチェックインした。本来なら観光客でにぎわうはずのこのホテルも、今はジャーナリスト専用の宿泊施設と化している。地元のテレビ局5社ほどがプールサイドにカメラを並べ、撮影した空爆の惨状をリポートを交えて送り続けていた。
夕暮れ時、ホテルの芝生の庭を歩いていると、そこにも大勢の避難民の姿があった。家を破壊され、一時的にホテルの空き部屋へ身を寄せているのだという。目につくのは女性と子供の姿ばかりだ。戦争さえなければ、海辺に沈む夕日はきっと美しかったに違いない。だがこの日、その光景はただただ物悲しく、僕の目に焼きついた。
夜、戦地取材の疲れと張りつめた緊張の中、イスラエル軍の偵察ドローンが低く唸る音を耳にしながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
(つづく)
5月29日、僕と遠藤さんはレバノン南部への入り口となる町、サイダへ向かった。ベイルートから車を走らせること30分。紀元前、地中海交易で栄えた都市国家フェニキアの時代にはシドンと呼ばれた、幾千年の記憶を宿す町だ。ここに駐留するレバノン軍の基地を訪ねる。目的はただひとつ、南部の戦場へ入るための通行許可証を手にすることだった。
(地図)
情報省が発行する取材許可証とは別に、南部の戦闘地域へ足を踏み入れるには、軍が発行する通行許可証が要る。この一枚がなければ、先へは進めない。
入り口でスマートフォンを預け、基地内の事務所へ向かう。名前を告げるが、返ってきたのは「まだ発給されていない」という素っ気ない一言だった。レバノンに到着したその日のうちに申請を済ませていたのだが、祝日を挟んだせいか手続きは遅々として進まない。その間にもイスラエル軍の攻撃は激しさを増し、南部へ通じる道がいつ閉ざされてもおかしくない。一刻も早く前線へ――そう逸る気持ちと焦燥が入り混じるが、許可証なしでは一歩たりとも動けない。
この感覚は一般の方から見ればジャーナリストの独善に映るかもしれない。紛争が起きれば誰よりも早く現場に入ろうと競い合うのがわれわれの習性でもある。そこにはある種の功名心があるのかもしれないが、一刻も早く真実を世界に伝えたいという思いがあることもまた事実なのである。
翌日、もう一度基地を訪ねると通行許可証が手渡された。「許可証」といっても、小さなメモ用紙に手書きで番号が走り書きされているだけの、拍子抜けするほど簡素なものだ。だが、このたった一枚の紙切れこそが、僕らにとっての命綱であり、前線へ通じる唯一のパスポートだった。
(許可書)
5月31日、いよいよレバノン南部へ向かう。今回、僕らを案内するフィクサーはアッバスではない。ベイルートとその周辺しか担当しない彼は、危険な戦場への同行を頑として承諾しなかったのだ。代わって南部に同行するのは、元レバノン軍の軍人ハムザ。南部出身で、この土地の道を知り尽くしているという。
「地中海沿いの道はイスラエル軍に攻撃される危険が高い。迂回したほうがいい。」
ハムザの判断で、遠回りにはなるが安全を優先し、東部のベカー高原を抜けて南部を目指すことにした。旧約聖書にも登場するヘルモン山をはじめ、雄大な景色が車窓を流れていく。途中、レバノン軍の検問所で車を止められた。もらったばかりの通行許可証を差し出すと、緊張の一瞬ののち、無事に通過できた。
ベイルートを出発して3時間、前線に近いエベル・サキという村までたどり着く。だが、ここで恐れていた事態が現実になった。この村より先は、軍によって通行止めにされていたのだ。すぐ先の町が空爆され、黒い煙が立ちのぼっているのが遠くに見える。この日はここまでだった。僕らは重い気持ちを抱えたままベイルートへと引き返した。
翌日も、南部への道は閉ざされたままだった。焦りが、じわじわと胸を締めつける。わざわざレバノンまで来て、前線で何が起きているのかを一度も取材できないまま終わるかもしれない――そんな思いが頭をよぎる。その一方で、きっと何とかなるはずだと信じたがる自分もいる。相反する二つの思いを抱えながら、避難民キャンプやかつてのレバノン内戦の爪痕を撮影し、ベイルートでできる取材を続けた。そして夜、ハムザから一報が入る。南部への道が開いたという。
6月2日早朝、再びハムザの車で南部を目指す。今度は地中海沿いの最短ルートを走る。途中、スーパーで朝食のクロワッサンを買う。レバノンはフランスの影響下に置かれた時代が20年余り続いたせいか、クロワッサンは本場と言って良い。駐車場でハムザが取り出したのは「PRESS」と大書された巨大なステッカーだ。それをボンネットに貼りつける。これから先は、それが盾になるかどうかも分からない。昼前、リタニ川にたどり着いた。川に架かる橋は、イスラエル軍の攻撃によって無残に破壊されている。この川を越えれば、その先は激しい戦闘地域だ。僕も遠藤さんも、ここで防弾ベストとヘルメットを身につけた。この頃イスラエル軍は、リタニ川以南の占領地域を自国の安全のための「緩衝地帯」とすると一方的に宣言し、その境界線を「イエローライン」と名づけていた。川を背景に、遠藤さんのリポートを撮影する。
昼過ぎ、南部の要衝スールの町に入った。古代フェニキアの時代にはティレと呼ばれた、かつては美しい交易都市だった町だという。町へ続く道には、ヒズボラの旗が途切れることなく続いている。レバノン南部にはシーア派の住民が多く暮らし、この一帯はヒズボラの強い影響下にある。
僕らはすぐに町の中心部へ向かった。そこは廃墟と化していた。前夜、イスラエル軍による複数のロケット攻撃を受け、死者4名、負傷者50名以上を出したジャバル・アメル病院を訪れた。爆風で建物の2階と3階が大きく破壊されていた。取材している間にも負傷した救急患者がひっきりなしに運び込まれてくる。スタッフの表情には、疲労と恐怖とともに苛立ちが色濃くにじんでいるように感じられた。外科医長のアッバス医師に話を聞いた。
「通常の医療活動をしていたところに、空爆がありました。パニックになる間さえありませんでした。イスラエルがしていることは、生命のあらゆる痕跡を消し去ることです。」
病院の外に出て、破壊された建物の前で住民へのインタビューを撮影していたときだった。遠藤さんが叫んだ。
「来た! 来た! 来た!」
とっさに瓦礫の陰に身を隠す。心臓が激しく鳴っていた。数秒後、恐る恐る外に出てみると、前方に黒煙が立ちのぼっているのが見えた。目視ではここから1キロと離れていないほど離れた場所にミサイルが着弾したようだ。すぐさま現場へ向かおうとしたが、我々に付き添っていたヒズボラの監視員がそれを許さなかった。
取材を終え、町のはずれにある海辺のリゾートホテルにチェックインした。本来なら観光客でにぎわうはずのこのホテルも、今はジャーナリスト専用の宿泊施設と化している。地元のテレビ局5社ほどがプールサイドにカメラを並べ、撮影した空爆の惨状をリポートを交えて送り続けていた。
夕暮れ時、ホテルの芝生の庭を歩いていると、そこにも大勢の避難民の姿があった。家を破壊され、一時的にホテルの空き部屋へ身を寄せているのだという。目につくのは女性と子供の姿ばかりだ。戦争さえなければ、海辺に沈む夕日はきっと美しかったに違いない。だがこの日、その光景はただただ物悲しく、僕の目に焼きついた。
夜、戦地取材の疲れと張りつめた緊張の中、イスラエル軍の偵察ドローンが低く唸る音を耳にしながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
(つづく)

