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【新田義貴のレバノン取材メモ⑤(最終回) 分断を越えて】

【新田義貴のレバノン取材メモ⑤(最終回) 分断を越えて】

レバノンの現状を伝える新田義貴の連載の5回目。戦闘地域から戻った新田は、地元の人たちによるある取り組みを取材する。そこには、分断を越えるための大きな希望があった。(写真・取材/新田義貴)

6月3日夜、レバノン南部の戦場からベイルートに戻る。「ぐったり」と言いたいくらい疲れていたのだが、無事に戻れた安心感もあり、赤ワインを買ってホテルの部屋のベランダで飲むことにした。両隣のベランダでも、アラブ人の家族連れがコーヒーを飲みながらおしゃべりしている。ほとんど言葉が通じないのだが、片言のアラビア語と英語で話しかけてみると、彼らが南部の戦闘地域から逃げてきた避難民だとわかった。

名前を問われたので「ヨシ」と名乗ったが、彼らはうまく発音できないようで、僕のことを「スシ」と呼んでしきりに声をかけてくる。よく見ると向かいのホテルのベランダにも難民家族とおぼしき人々の姿がある。どうやらイスラム教徒地区であるこの周辺のホテルは、避難民たちで埋め尽くされているようだ。

実はこうした避難民の存在は、レバノン社会で大きな問題となっていた。南部のヒズボラの支配地域から多くのシーア派の避難民が流入したことで、ベイルートのキリスト教徒などとの間に軋轢が生じ始めていたのだ。避難民が町にいることで、ヒズボラの構成員が紛れ込んでいると疑われてイスラエル軍から空爆を受けるリスクが高まるとして、避難民を排除しようとする動きまで起きていた。

レバノンは多宗教国家と言える。国が公認しているだけで18の宗派がある。国会の128議席は人口585万をほぼ2分するキリスト教系とイスラム教系が分け合い、さらに宗派ごとの人口比で配分される。内戦の記憶を持つ国が、対立を防ぐために編み出した仕組みだ。だが戦闘が長引くなか、そのバランスが揺らいでいた。

レバノンのキリスト教徒の間では、戦争の責任の一端はヒズボラにあるとして、シーア派、さらにはイスラム教徒全体への批判が強まっている。「ヒズボラはイランの傀儡だ。レバノンには国軍だけで十分」。そう語る男性もいた。キリスト教徒のアウン大統領は、ヒズボラの武器を国軍に引き渡すよう主張し、ヒズボラ支持者たちが抗議の声を上げていた。

3日後、この分断を誰よりも憂えている人物に会った。南部の玄関口サイダで避難所の運営を手伝うガビ・ジャンマールさんだ。避難所とは学校だ。約620人が、教室をカーテンで仕切って暮らしている。作家であり政治評論家でもある彼は、いまの戦争を「第二のガザ」と呼ぶ。そして、キリスト教徒が避難民を自分たちの敵だと感じ始めていることを最も危険だと感じていた。

(ガビ・ジャンマールさん)

「このままではレバノン人同士の争いになってしまう」

ガビさんが恐れるのは内戦への回帰だ。パレスチナ難民の父とレバノン人の母を持つ彼は、12歳でPLOの少年兵となった。去年出版した著書『失われた少年の心』には、「バルコニーでコーヒーを飲む老人も撃て」と命じられた記憶が綴られている。

「人を殺す前に、まず殺さなければならないのは自分の中の人間性でした。内戦で私たちはレバノンを破壊しただけでした。」

いま彼は、様々な宗派の人々との対話を続けている。

彼の妻、日本出身の潤子さんが関わるのが、レバノン伝統のパン「サージ」のプロジェクトだ。サージは、小麦粉を練った薄い生地を丸い鉄鍋で焼くパンで、宗教や宗派を問わず、レバノンのどこでも食べられている。地方ごと、家庭ごとに受け継がれた味があり、チーズをのせる人もいれば、ザータルという香草のペーストをオリーブオイルで溶いてのせる人もいる。

(レバノン伝統のサージ)

潤子さんは中東各地の食文化を紹介するサイトを運営しながら、日本の国際支援に関するコンサルティング会社で働いている。「やっぱり焼きたてのサージは、本当においしいですよ」と潤子さんは笑う。

プロジェクトの名は「国を再建するための、おばあちゃんの武器」。宗教や宗派の異なる隣人の女性たちが、一緒にサージを焼いて食べることで、女性の力を結集しようという試みだ。避難民の女性たちにサージにまつわる家族の物語や、他宗派の隣人との思い出を語ってもらい、それを記録していく。参加者の多くが共感した話は表彰され、後日、賞品としてサージの鍋が贈られる。語ることが、そのまま他の人々との接点になる仕組みだ。

ガビさんが運営を手伝う避難所に、潤子さんと一緒にサージの話を聞きに行った。再会を喜び合ったのは、南部から逃れてきたイズディハルさん。自宅はイスラエル軍の攻撃で破壊された。プロジェクトの説明を聞くと、「ぜひ聞いてほしい話がある」と語り始めた。

「夫が亡くなったとき、娘たちはまだ幼くて、どうやって働き、育てていけばいいのか悩みました。サージを焼いて売り、その収入で子どもたちを学校に通わせたのです。パンを焼けば、香りが遠くまで広がって、人々が自然に集まってきます。誰かを呼びに行く必要はありません。香りがみんなを連れてくるのです。私たちにとってサージは、何世代もの人々をつないできた大切なものです」

聞き終えた潤子さんは言う。

「戦争は、人を殺して領土を奪うだけではなく、人々の生活や、昔から続いてきた文化を壊すことも、戦略として行われていると思います。だからこのプロジェクトは、それに抵抗するレジスタンスなのです。普通の暮らしを続け、先祖代々食べてきたものを食べ続け、作り続けること。それ自体が抵抗の象徴だと思います」

翌月、イズディハルさんのもとにサージの鍋が届いた。彼女はさっそく避難所でパンを焼き、避難民同士で絆を確かめ合った。そしてまもなく故郷の戦闘が小康状態になり、帰郷することができた。

「隣のキリスト教徒もドゥルーズ教徒も、私たちと同じ。区別なんてないと分かりました。まだ戻っていない隣人に、早く会って抱きしめ合いたい」

一枚のサージで戦争は止まらない。いまも戦闘は続いている。それでも、国旗に描かれたレバノン杉のように、この国の人々は国民の団結をあきらめてはいないと感じた。

(潤子さんとイズディハルさん)

ガビさんは言う。

「互いに好意を持っていなくても、話し合いを試みることが唯一の道なのです」

焼きたてのサージの香りが、その言葉を少しだけ現実に近づけているように思えた。

(筆者追記)

今回が、71歳の遠藤正雄さんにとって最後の海外取材になった。膝に痛みを抱え、引退を公言されていた遠藤さんに、僕が「どうしてももう一度」と無理を言って同行をお願いしたのだ。アフガニスタン、イラク、シリア、ウクライナと、長年行動を共にしてきた。僕にとっては戦場取材の先生のような存在だった。

今回もレバノンに先乗りして許可証の取得や取材のコーディネートに奔走してくださった。僕が着ていた防弾ベストは、遠藤さんから譲り受けたものだ。スールで空爆から瓦礫の陰に身を隠せたのは、危険をいち早く察知した遠藤さんの叫びのおかげだった。内戦が始まって間もない1978年からこの国を見てきた遠藤さんは、今も紛争が続くこの国の景色に何を見ていたのだろうか。

ハードな取材で遠藤さんの膝をさらに悪化させてしまったことを大変申し訳なく感じている。それでも文句ひとつ言わずに、痛みに苦しみながら最後まで真剣に取材を続けてくださった先輩にただただ敬服するほかない。

遠藤さん、長い間、本当にありがとうございました。そして、お疲れさまでした。

これからは山の中のご自宅で少しはゆっくりされてください。

僕は今後も、先輩から頂いた教えを胸に取材を続けていきたいと思います。

読んでくださった皆さまにも、心から感謝申し上げます。

(編集長追記)

新田さんの「レバノン取材メモ」の連載は今回で終わりです。InFactは執筆者に必ず原稿料を払っていますが、それは微々たるものです。新田さんには取材メモを活かして書籍にまとめて頂きたいと思います。そして少しでも危険な場所での取材費を回収して欲しいと思います。十分な原稿料を出せない編集長として恥ずかしい話ですが、新田さんの取材結果が多くの人に伝わることを願います。

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